島崎藤村「破戒」の映画を観た違和感[564/1000]

島崎藤村の「破戒」の映画を観た。破戒は、隠遁中に感銘に受けた本の一つである。

 

差別を扱った題材に触れた後、「差別は駄目だ」と教条的に感化されることほど、偽善的なことはない。われわれは差別をしない”新しい人間”であり、差別をしていた昔の人間は自分達とは違う”古い人間”であるという考えがこそ差別的であるからだ。

差別をしていた昔の人間も同じことを言うだろう。彼らは別に、悪いと思って差別をしていたわけではない。われわれは、日本人の誇りを守る”立派な人間”であり、穢多は日本人を卑しめる”われわれとは違う存在”であると信じ、そこに時代の「正義」が存在していた。

時代の空気を当たり前に吸って、当たり前に吐くなかに、そうした差別があったのだ。安逸に「差別はいけない」と映画を観て感化されることは、作品が意図することかもしれないが、教条に陥り満足する安逸は、彼らと同じように空気を吸って吐いているのと何が変わろう。

 

時代に受け入れられる教条を示しながらも、こうした安逸な空気に対抗する隠れたメッセージを、穢多の猪子先生という登場人物の台詞にみた。これは小説にはなく、映画だけにしかなかったものである。(実際この他にも、原作とは違う箇所は多くある)

「いまの差別はなくっても、別のところに差別は生ずる」

時代の違う人間は差別していた時代の人間を決して非難できる立場にない。時代の表層が変わっただけで、われわれ自身が、当事者であり、被害者でもあるからだ。第三者の立場として、教条に酔い痴れることは、自分を棚に上げた偽善にしかならない。

 

映画化された「破戒」は、時代にかなり脚色されているように思われた。原作にはない与謝野晶子が旅順で戦う弟に向けて書いたあの有名な詩が引用されて、軍国主義の悪、自由と平等の正義の対立がいっそう露骨であったように思われた。

ああ、弟よ、君を泣く、

君死にたまふことなかれ。

末(すゑ)に生れし君なれば

親のなさけは勝(まさ)りしも、

親は刄(やいば)をにぎらせて

人を殺せと教へしや、

人を殺して死ねよとて

廿四(にじふし)までを育てしや。

この与謝野晶子の詩も、時代の世相に反して、「意志」の力によって発せられた詩である。表層は自由と平和、人間の命の重さを扱っているものの、同時に、真に時代に反抗して生きた人間であることを忘れてはならない。

 

隠遁中、島崎藤村の文学を読んだとき、何も言うまいと思った。黙って苦悩を感じることしかできないと思った。同情とは、同じ十字架を背負うことであるとニーチェは言う。差別を受けた人間たちに同情するのなら、彼らと同じ涙を流すしかない。今日それができないのなら、ただ黙って安泰に生きていることを恥じるしかないじゃないか。

 

「耐えるのです。歯を食いしばって耐えるのです」

この台詞に特に心を打たれた。彼らと同じように、歯を食いしばって生きていくのだ。

 

2024.1.5

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