スマホを海にぶん投げて救える自分[110/1000]

海に行くたびにいつも、スマホを海にぶん投げたらどんな気持ちになるだろうかと想像する。

日本海にいたときもそうだった。夕陽が沈もうとするその先に、右ポケットからスマホを取り出して、大きく振りかぶって思いっきり投げる。薄くてうまく投げられなくて、不器用にクルクルと宙を舞うスマホを私はどんな気持ちで見るか。そのまま重力にしたがって水面に落ちていく後の夕陽を私はどう見るか。

海を汚す行為であることは間違ないないが、この行為に限って言えば、嫌悪より、清々しさを感じる。

 

山ごもりをしてから、何かを絶つことの清々しさをおぼえた。

笠置山での山ごもりで一番大きかったのは、食への執着を絶つことができたことだった。7日間、玄米とかぼちゃで過ごした私は、下山後も、何か甘いものが食べたくて暴れるといったことはなく、心の鎖が1つ解けたような、清々しさを味わっている。

1つのピークは山ごもり3日目で、甘いものが食べたくて相当苦しんだ。そのときに、弱気な自分が次々とあらわれ、まるで甘いものによる自分への封印が解けたようだった。封印から解放された自分は、手に負えないくらい暴れ、私はひどく苦しんだが、5日目になる頃には弱気な自分はすっかりどこかへ消えていた。

 

私にとってこの現象はかなり興味深く、見たくない自分に甘いものを食べて、蓋をしていたのだと気づいた。見たくない自分が蓋を開けて出てこようとするたびに、さらに甘いもので蓋をした。私が今感じている清々しさは、上から蓋で押されているときに味わっていた、悶々とした重みがなくなったものだ。

蓋をしたことに安心をおぼえながらも、蓋をされることに苦痛を感じていた。

 

偶然起こったこの結果には2つ理由がある。1つは山ごもりをして、甘いものが物理的に絶たれ、蓋をしたくても蓋がなかったこと。もう1つは、瞑想を最近しはじめたこともあって、蓋から出てくる自分を拒むことなく、観察できたこと。

精神修養 #19 (2h/48h)

・衝動とは「思考の嵐」である。

・思考にはスピードがある。膨大な量の思考が、物凄いスピードで頭を疾走すると、圧倒される。これが思考の嵐。

・思考の嵐は強力で、集中力と強い意志がないとすぐに反応してしまう。

・昨日聴いた、辻井伸行さんのノクターン2番が心にずっと再生され、ピアノをどうしても弾きたいという衝動に襲われている。

・思考の嵐でも、肝を据えて座って居るには、文字通り、嵐の中を静かに座っていられるくらいの集中力と忍耐が必要だろう。

 

スマホによって封印している自分は、ほぼ間違いなくいる。この自分がどんな自分なのかは、封印を解いてみないと分からないが、恐らく、どでけえ奴であることは間違いない。だからスマホを海にぶん投げた末に、自分がどうなるのか好奇心はすごい。

下取りに出すとか、売るとか、そんな覚悟じゃだめだ。損得に縛られた発想では弱気な自分が出てきたときに、すぐに逃げ出してしまう。こういうのは潔さ。海にぶん投げるのがダメなら、未練を芯から砕くように、力の限りハンマーを一振りする。

 

そんなことをできたらきっとおもしろいと想像しながらも、今すぐにできないのは、まだ私の中に断ち切れない弱さがあるからだろう。スマホがなくなれば、地図がなくなり、情報がなくなり、色んな所で損をするかもしれないことが怖いのだ。ああ、そうか、私はまだ損得勘定に縛られて生きている。

いつかという言葉は使いたくないが、今すぐにする覚悟がもてない私は、いつかという言葉に逃げて、封印される自分に「しばし待て」と言うことしかできない。

お前はラスボスだ。すまん、しばし待て!

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