わからないまま、身を委ねる[489/1000]

わかることしか書けない。言い換えれば、自分の程度に堕落させたものが言葉となるのだ。発された言葉は、まばゆい光を放ち、価値のすべてを含有しているように思われるが、ほんとうは、言葉にならなかった見えない部分、つまり、言葉が生まれるもととなった、暗澹のなかに取り残された「海」の部分にこそ価値の本源が潜んでいると感じる。言葉とは、海面に生ずる泡沫のようなものだ。

手短に日常に益するのは、泡沫であるが、長年の糧になるのは、間違いなく「海」であろう。私は今、ゲーテの「ファウスト」、三島由紀夫の「金閣寺」を読んで、大きな挫折感に沈んでいる。分からないことの、巨大な海の有毒性にからだを蝕まれながら、何も分かったような言葉を綴ることができず、苦しくも絞り出した言葉は、以上のものだ。

 

さて、そういうわけで、今日はこれ以上、書くことが思い当たらないが、この分量で1000日投稿を誇るには、あまりにも拍子抜けである。そんなつまらない虚栄心から、まさにこの「虚栄心」について、考えをまとめてみたい。

 

電気が使えず、パソコンも使えなくなった背景から、草枕月記に投稿するかわりに、こうして自前のノートに手記をはじめて一週間が経った。人に読まれる前提で書いているものの、まだ現実には人に読まれておらず、このまま無事に、人に読まれる保障もないという状態は、私にとっては新鮮な感覚である。また、こうした断絶状態にあって、そもそも人目に浴びることの当たり前になりすぎた状態こそ、むしろ不自然であるのかもしれない。

 

ネットによって、ブログやブイログというものが公にさらされるようになって久しい。それらのすべては虚栄心の牛耳るところにちがいなく、本来、ここに生ずるべきはずの「恥」は、発信や共有という口実によって無きものにされた。己の分を弁えている人間であれば、安易に己の稚拙な考えを世にさらすような真似はできないだろう。私も、当のブログをはじめたのは、ヒッチハイクで日本一周を為し終えたときの、虚栄心であった。「恥」はあった。分も弁え、躊躇した。しかし、虚栄心の前に屈服したことは確かである。

 

こうした虚栄心に満ちた電脳空間とはいえ、虚栄心によって生み出される「賑やかさ」というものは、われわれの慰みになる。虚栄心に苦しめられながら、虚栄心に屈服する、これが電脳空間に未練をのこしつづける私のような人間の実態だとしたら、なんとも屈辱的である。

 

隠遁生活。使い古された言葉ではあるが、電脳世界への一切の逃走機会がなくなり、常に生身の世界を抱き締めている感覚は、無上の喜びに匹敵するものだと、心から感ずる今日である。

 

【書物の海 #19】金閣寺, 三島由紀夫

「戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によって保たれていたと思わないかね。死刑の公開が行われなくなったのは、人心を殺伐ならしめると考えられたからだそうだ。ばかげた話さ。空襲中の死体を片付けていた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしていた。

人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、和やかにするんだのに。

(中略)

俺たちが突如として残虐になるのは、たとえばこんなうららかな春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木漏れ陽の戯れているのをぼんやり眺めているときのような、そういう瞬間だと思わないかね。

 

2023.10.22

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