快楽の価値をどこに見出すか[488/1000]

[2024.1.1記]

明けましておめでとうございます。

本年も皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

 


 

 

快楽主義について、昨晩から今朝にかけ、エピクロスの教説と、澁澤龍彦の「快楽主義の哲学」を読み直したので、一度考えを整理しておきたい。

そもそも快楽について考えてみようと思ったのも、太宰治の情死にあるように、快楽と情熱とが決して無関係ではないと感ずるところが大きいからだ。どちらにも内在しているのは「美」であって、これは澁澤氏の著書に登場する「美的快楽主義」という言葉がぴったり当てはまるように思われた。

 

私自身の今の隠遁状態は、エピクロスとも澁澤氏とも、出発点が違う。エピクロスは、「死」の恐怖から免れることが前提にあるようにみえるけれど、私はむしろ「生」の不安、倦怠、虚無を宿敵に置く。澁澤氏は、「人生は無目的だ」という前提に立つが、私は”無目的”的人生に生の苦痛をおぼえ、信仰によって意味を見出そうとする人間である。

 

こうした前提の違いはありながら、それでも私自身、自分を快楽主義者だとみとめる。

人里離れた森の中で暮らし、毎日書物を読み、わずらわしさを感じる物質は最低限にとどめ、精神的充足に最上位の価値を置く。これは、東洋的快楽の理想である。一方で、この隠遁生活を、「完成なる生活」とみなさないのも、生の倦怠に対する対応が不十分であり、死の衝動を満たすには、あまりにも”受身すぎる”と感じるからだ。つまり、自ら動いて、掴み取りに行くという、”狩猟的気質”のうちに、死の衝動の解放を見出せないかと考えるのである。

 

生命燃焼においては、死に向かっていく快楽を善ということができそうだ。

男女の営みの極地に死を置いた、太宰の描く情死は、その代表的な例であろう。生にとどまる安逸な快楽と異なり、そこに到達するには「弱さをつかむための強さ」がいる。生にとどまる安逸は、規格品的快楽とも言うことができ、これは人間を惨めにするものである。強さもなく、かといって弱さをつかむ強さもなく、ただ弱い、無力だからである。これは、生の不安を誤魔化すことが精一杯であるため、私としても警戒したい快楽のひとつである。

「身を挺して自ら獲得しに行く。」ここに快楽の価値はあるまいか。

 

森の隠遁の素晴らしさは、十二分に認める。私は日々、書物に浸かって考えを巡らす日々が幸福でならないし、電脳空間から締め出された今は、その幸福をより一層感じるのである。しかし、こうした東洋快楽の一方で、やはり”受け身”である退屈さも確かにある。身を挺して自ら獲得する、まさに狩りに出て、血を流すことに若々しい生命が飢えている。

東洋的快楽としての静かな自然での隠遁、西洋的快楽としての文明の享楽、双方の矛盾を貫く、都合のいい論理はないだろうか。すべては、憧れに向かい、死に向かうため。ここに、その道を切り拓けそうだ。

 

【書物の海 #18】エピクロス 教説と手紙

道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないことにほかならない。けだし、快の生活を生み出すものは、つづけざまの飲酒や宴会騒ぎでもなければ、また、美少女や婦女子と遊びたわむれたり、魚肉その他、ぜいたくな食事が差し出すかぎりの美味美食を楽しむたぐいの享楽でもなく、かえって素面の思考が、つまり、一切の選択と忌避の原因を探し出し、霊魂を捉える極度の動揺の生じるもととなるさまざまな臆見を追い払うところの、素面の思考こそが、快の生活を生み出すのである。

 

2023.10.21

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