“自己肯定感”などまやかしにすぎない。[409/1000]

森の家に来客をむかえた。家はまだ屋根がついた段階で迎え入るには忍びない状態であったが、適当な場所に即席でテーブルをつくって、ハンモックとイスを置いたら、それなりに落ち着ける空間ができた。「ハンドパンをもっていく」というので、「気を遣わなくても手ぶらで大丈夫です」とお伝えしながら、お昼がピクニックになる可能性にそなえ、適当に準備をしていたところ、ハンドパンとは、パン(bread)ではなく、スイス発祥の体鳴楽器のことであることが判明した。UFOのような形をした美しい造形の楽器で、ひざの上に円盤をおき、手でたたくようにして音を奏でる。見た目を裏切らない宇宙の神秘を感じさせる音色で、癒しの演奏は、まるで円盤に乗って宇宙を旅するかのようであった。

 

一人でいると破壊に向かうのは男の性である。昨今では”自己肯定感”などという言葉がはやっているが、私はこの言葉にまやかしを感じる。自己を否定し、否定し、否定し、憧れに向かいつづけるのが男であると思うのである。渇きながらも砂漠の果てを歩きつづけ、病気になりながらも酒を飲みつづけ、肉体が限界をむかえてぶっ倒れながら、ダメな人間になりながらも、星空の煌めきに思いを馳せるのである。男にとっては、自己を肯定するか否かという物質(心)の問題はささいなもので、不幸も含め運命まるごと愛せるかという精神(魂)の問題のほうがずっと重要である。

そんなつもりで生きていると、女性のもたらす癒しというものは、まるで別世界のもののようである。生きるか死ぬかの殺風景な世界に、癒しの雨が降り注ぐ。男には男にしかつかめない宇宙の神秘があるのなら、女には女にしかつかめない宇宙の神秘があるのだろう。我々が異性に恋をする純粋は、肉体そのものに恋をするのではなく(それは欲望の部分である)肉体のつかむの宇宙の崇高性にあるような気がする。

 

別れ際、また会うその日まで、お互い生きのびましょうと、彼女は去った。たしかに、また会いましょうと言っても、それまで生きられる保障なんてどこにもないのだから、生きのびましょうというほうが正確なのかもしれない。しかし、女性の彼女の口からこのような言葉が出るとは、少し驚きであった。彼女自身もまた、その生身を宇宙に委ね、運命のままに生きているのだろうと感じる瞬間であった。

似たような言葉に「お互いにがんばろう」とよく使われるけれど、私はこの言葉があまり好きではない。お互いがそれぞれの地でがんばることは、事実としてはそのとおりであるけれど、大家族を失って孤立した肉体が、ますます孤立を際だたせるようで、言葉としてはあまりに物質的でドライに感じるのである。

宇宙より地上に遣わされし我々は、ただでさえ、肉体による孤立を日々経験している。この孤立を克服し、大きな故郷に思いを馳せられる言葉に元気になると思うのである。お互い生きのびましょう、とはまるで宇宙の言葉である。不条理な社会に傷ついた生命の痛みを分かち合いながら、運命の流れが再び合流する日を夢に見るのである。

 

さあ、また新しい陽がのぼり、孤独な一日がはじまる。今日もこの世界を生きのびよう。

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