武士が毎日刀を手入れしたように、身体を元気な状態に整えられているか。[217/1000]

何となく気合いが入らないとき、気が分散している。気合いとは、気を合わすことである。気が合わさり元気玉のように、体内に塊ができた状態を「気合い」と呼ぶ。

 

今日は文章を書ける「気」がしない。この217日間の投稿で、こういう日は度々訪れていたが、久々の再来である。心が悲しんでいるわけでも、怒っているわけでも、恐れているわけでもない。だからといって、明るく朗らかにいられているわけでもない。なんとなく、力が一点に込められない。ここ最近ずっと学んできた、天風先生や葉隠の教えを元にこの状態を考えるなら、気(エネルギー)が分散しているということだろう。

伐木に関する教習を終え、一区切りついたところで、フッと気が抜けてしまったようである。下丹田に込められる気は、肛門から抜けていく。肛門が気の出口になることを知ってからは、日々、思い出すたびにケツを締めるよう習慣づけていたはずだったが、気の緩みの勢いの方が勝っていたということだろう。

 

ますます寒くなってくる。この外気を上裸で浴びながら、ケツを締め下丹田に気を込めれば、すぐに元気になる自信があった。解法が分かればやらない手はないと思い、早速上裸になって外気を浴びる。大晦日の朝一に上裸になって、水行をしたときにも感じたことであったが、冬の冷気を上裸で受け取ると「ああ今身体が強くなっている、これを毎日してたら絶対に病は患わない」という確信を得る。これは誇張抜きに本当である。うまく言葉にできないけれど、身体の内側の一番深い所から未知なる力が湧き出てくるような感覚を得る。

 

天風先生の教えを学んでいる今は、この力を宇宙エネルギーと同質であるといっても差し支えないかもしれない。あくまで体感の話になるが、自然の法のような大きな力をもち、肉体の免疫系の大部分に直接作用することを直感する。この力が機能しなくなれば、人は心身共に弱くなって不調となるが、この力が機能する限りは、人間の免疫は万全で、心身元気で、どんな病も絶対に起きないだろうという直感を得ている。この力が湧き出る時は、寒さが心地よいと感じてしまう。

 

日本の古来の健康法に乾布摩擦というものがある。今では馴染まれないが、かつては学校教育でも行われていたようである。乾いた布を使って身体をこすることで体内の血流を活発にして、強い身体になることを目的とする。これも目指すところは、人間の深い免疫を活性化させることであろう。

 

天風先生は、健康の本質は心だと言う。寒がってブルブル震えながら嫌々やっても意味がない。虚勢でもいいから、堂々と寒さに立ち向かうように、ケツを締め、下丹田に気を込め、我は尊しの気概でやると、身体の潜在的な力は機能し始める。とても不思議な話をしているが、気というものも、心というものも、科学では安易に説明のつかない不思議なものなのである。心の状態が作り出す肉体の神秘は本当に不思議だなぁと思う。そしてこの力を感じる度に、大きな力を生まれ持っていることを知り、人間であることを誇らしく感じられる。

 

いま、明るく朗らかな気持ちでいられているか。小難しいことを考えても、最後に問うのは、これ1つである。状態の悪しを頭で考え解決しようとしてしまうが、我々人間には天から授かった神秘的な力があることを覚えておきたいものだ。

 

精神修養 #127 (2h/262h)

心も身体も、霊魂が生きるための道具に過ぎない。武士が毎日刀を手入れし、身なりを整えたように、この身体と心もまた日々整えたいものである。あくまで道具である。だから必要以上に身体を甘やかすことはしないが、疲れていたり、眠たい身体のままでは元気に生きられないだろう。

最近の瞑想は眠たくて眠たくて、修養になっているのか分からないような状態であるが、身体という道具の手入れが行き届いていない証拠であろうか。ちゃんと眠ってちゃんと休むこと。身体を温めることは大事と言われるが、服を何枚も着ていないで、たまには上裸になって外気を浴びること。身体を整えることは、必ずしも身体を守ることではない。身体には潜在的な大きな力が宿っているのだから、それを発揮する状態こそが、身体という道具を整えることだろう。

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