神は死んだ②[492/1000]

神が死んだか、死んでいないかという議論など、ほんとうはどちらでもよいことだ。

そこに固執するのは、まるで自分の家が留守のあいだに、何者かに盗まれることを怖れて、一歩も外に出られないようなものである。そうではない。家のものなど、貧しいものにくれてやれ。どちらにせよ、荒涼な砂漠を旅して生きるのだ。この漠々たる天こそが、わたしの「家」だ。わたしの帰る場所だ。この広大な大地こそ、わたしの寝床だ。それは、何者にも奪われるものではない。

 

「神が死んだ」という宣告は、私にとって中々のショックであった。これでも昨晩は、なかなか深い悲しみに沈んだのだ。今は少し、上のように思えるくらいまで精神を持ちなおしたのも、ツァラトゥストラをもう一度読み返したおかげであった。

ニーチェは決して、人間精神を諦めたわけではない。人間が天地を失うことを赦したわけではない。誰よりも、人間と人生を愛そうとした。だからこそ、神の死を宣告し、次なる思想を打ち立てた。ニーチェは人間の存続にかけて、自ら血を流し、本著を綴った。それが分かれば、己だけいつまでも悲しみに服することは、むしろ恥だと思わねばならない。

あなたがたが、もっと人生を信じていたら、これほど瞬間に身をまかせることはあるまい。だが、あなたがたは、待つことができるだけの充実した内容を、自己のなかに持ちあわせていないのだ―それで怠惰にさえもなれない!

 

今の私に、ニーチェの思想を言葉にする力がない。それは、海からコップに水をくむようなものだ。その果てしない深さも混沌も、すくうことができず、澄み渡る青も、コップのなかではたちまち透明となる。もしこの手記を読んで、ニーチェの思想に触れたいと思う者がいれば、自ら海に飛ぶこむしかない。海を味わいたい人間は、自ら海に飛び込むのだ。私にできることは、海の感動を私なりに伝え、感化を与えるだけだ。

いい本には必ず海がある。世には、海水を売りさばき、人々に海を知った気にさせる輩も存在するが、言葉は悪いがあんなものは、”イカサマ教養”だ。そこには、「詩」のかわりに「道化」がある。「難しさ」の代わりに「分かり易さ」がある。道化を必要とする人間に足りないのは、人生を信じる力だ。海に飛び込む歓びを、思い知れ。

 

人生を信じ、愛するということ。内容もすさまじいが、書物を一貫するニーチェの魂の形相に、私は烈しく感動している。これは、座右書の一つにして、死ぬまでぶつかっていきたい意気込みだ。

 

【書物の海 #22】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ

あなたがたが体験できる最大のものは何であろうか?それは「大いなる軽蔑」の時である。あなたがたがあなたがたの幸福に対して嫌悪感をおぼえ、同様に、あなたがたの理性にも、あなたがたの徳にも嘔吐をもよおす時である。

 

見下すことと、軽蔑することは、全く別物である。見下すことは、他人との比較によって生じる。よってその対は、見上げることであり、ここでは優越感と劣等感を、虚栄心が束ねている。

軽蔑を支えるものは、羞恥心と誇りである。恥を失い、誇りを失った人間に対して、精神の高貴さが軽蔑を生むのである。軽蔑とは、裏を返せば愛せである。「人間」を愛すればこそ、軽蔑は生じるのである。

「葉隠」も高慢を徳として迎え入れる。己の武道に対するプライド、気概がなければ、武は高みに到達できぬ。人間を真に愛すれば、高慢や軽蔑といった、不道徳に思われることも、必要悪として受けいれなければならない。

 

2023.10.25

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