神は死んだ③[493/1000]

朝も昼も夜も、ニーチェを読みつづける日がつづく。当然だが、一朝一夕で物にできる思想ではあるまい。訳者の氷上英廣氏は、解説でこう述べる。「何千年の未来へひびく声を持つ」と。連日、述べているように、これは人類の運命に挑戦した書物であり、私のような凡人には、しぶとく繰り返し食らいついていくしかないだろう。

 

神が死に、人々は宇宙の冷気に丸裸にされるなか、避難所としての電脳空間の発達は、科学なりの正義だろうか。しかし、私にはどうも、避難先はその場しのぎの暖をとることで精一杯に思われる。「神が死んだ」という揺るがない事実にぶつかっていかないかぎり、人間の根源的な渇きは、潤されないように思うのだ。

ニーチェが語る、「超人」と「永遠回帰」の思想について、相変わらず、この場において、私が自分の言葉で表現するには、力及ばずである。ニーチェの、人類に対しての勇敢な戦いを追体験させてもらうほど、これまで私自身、ペシミストとなって人間を憂い、世を嘆き、生の苦痛を和らげることしかできなかったことが情けなくてしかたがない。

さあ、ここに道はひらかれた。中庸、安逸な幸福の泥のなかに足を捕らえられることなく、大地を疾走できるか。ああ、私にはその道しかもう残されていない。

 

【書物の海 #23】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ

現時点で心に残っている章の一つに、「悲壮な者たち」というものがある。これは、先にも書いたとおり、私自身、ペシミストとして悲壮感をもって生きた過去を追想させる。この章に登場する、「精神の苦行僧」なるものが、ペシミストのわたしにピタリと当てはまった。安逸な幸福を軽蔑し、嘔吐を催しながらも、その悲壮感を抜け出す術を知りえないでいる。

まだかれの認識は、微笑することを学ばなかった。

敵愾心(てきがいしん)を捨てることを学ばなかった。

かれのほとばしる情熱は、まだ美によって鎮められなかった!

(略)

力が慈しみとかわり、可視の世界に降りてくるとき

そのような下降をわたしは美と呼ぶ。

そして力強い者よ、誰にもましてあなたから、わたしはその美を要求する。

(略)

魂が英雄に見捨てられたとき、はじめてその魂に、夢のなかで、―超英雄が近づいてくる。―

 

また、今心に残る、もう一つは、「山上の木」という章である。ここでは、高みを目指しながらも、それに疲弊する青年が登場する。私はここでも、過去の自分にその姿を重ね、ツァラトゥストラから教えを授かっているような気持ちになった。

「いま、この木は待ちに待っている。―何をいったい待っているのか?この木は雲の座にあまりに近く達している。この木はおそらく稲妻に打たれるのを待っているのだ。」

(略)

「そうなのです、ツァラトゥストラ、あなたの言うことは真実だ。

わたしが高くのぼろうとしたとき、わたしはわたしの破滅を求めていたのだ。そして、あなたこそ、わたしが待っていた稲妻なのだ!」

 

2023.10.26

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