孤独のときにしか繋がれない感覚がある。[131/1000]

寂しさの中に居続けると、寂しいという感覚すらも分からなくなる。陽が落ちた寒そうな諏訪湖を眺めていても何の気休めにもならず、心は凍り付いたように冷たく粗い。胸が締め付けられて痛いのに、涙は溢れそうで溢れない。スーパーで買った100円のメンチカツは冷めていたけれど、ほんのり残る微かな温かさは、私の胸を一杯にするのには十分だった。

 

今日も太陽が昇った。陽の温かさに凍てついた心が歓喜している。孤独の時間は決して楽なものではないが、孤独のときにしか繋がれない感覚がある。昨日はそれを感じていた。

人間は、水平方向にも垂直方向にも繋がりが絶たれれば孤立すると思っていた。これについて、もう一歩前の段階を述べると、一人のときに楽を選べば人間は孤立し、苦を選べば人間は孤独になるのだと思う。「孤立する」とはいっても「孤立になる」とは言わない。逆に「孤独になる」とは言っても「孤独する」とは言わない。孤独は状態であると同時に、魂の存在そのものだと感じる。肉体によって覆い隠されていた魂が、剥き出しになったようなものだと思う。

読書は偉人の魂との対話だと言うが、孤独な時ほどこの意味がとてもよく分かる。自己の魂を感じる瞬間でなければ、言葉や音楽を通して偉人の魂に触れることはできない。

魂の修行ばかりをしていても、浮世離れしてしまう怖さはあるが、行きつく先が命の燃焼にあるのならば私は躊躇なくこの道を進みたい。利口に折衷することも頭によぎるが、これも結局は肉体から発せられた水平的な損得勘定なのだ。根底にあるのは葉隠思想で「二つ一つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり。」だからとことん死ねる方に突っ込んでいきたい。

 

精神修養 #40 (2h/90h)

寒さにどうしても打ち克つことができず、瞑想を投げ出して寝袋に潜る自分を、もう一人の自分が静観していた。朝の5時、気温は1度。肉体を俯瞰できるほどの集中を保てれば苦にならないほどの寒さではあるが、その域まで達するまでの障害は大きい。さすがに今朝は寝袋に舞い戻る自分を、「無念なり!」と潔く受け入れる自分がいた。

このままでは冬を越せないので、対策を講じなければならない。しかし考え方を変えれば、寒さは自分を強くする障害ともなりうるのだ。負けじと修行に励もう。

 

[夕の瞑想]

独りのときに、楽に走れば、人は孤立する。独りのときに、苦に走れば、人は孤独となる。魂の尊厳に価値を見出せるようになると、孤独の苦しさの中に知恵の声を見出せるようになる。肉体的には苦しくとも、知恵の声を授かれば、これでいいと思える。

不本意であったが、仕事の関係で孤独が中断された。氷のように張り詰めた緊張は溶かされたが、知恵の声に従って、孤独をもっと突き抜けたいという思いが強かった。

一人でいることは楽だというが、楽じゃないこともある。今日は人と話すことの方が、ずっと楽だと感じていた。何をするにも、苦を選ぶか楽を選ぶかの選択権が常にある。事の本質はそこだと思う。生死の決定によって状況はたちまち質を変える。

 

最近は日々の行いが恋そのものだと感じる。忍ぶ恋で毎日が作られてる。毎日せっせと汗を流して畑を耕すお爺ちゃんも、鉢のお花に水をやるマンション暮らしの女性も、部活のために毎夕、諏訪湖の周りを懸命に走る女学生も。世界は恋に溢れてる。そして恋の多くは、繰り返しの中に見つけられるものじゃないかな。陰徳に価値があると言うように、誰にも見せない部分にはエネルギーが凝縮されて、命はそこから垂直方向に膨らんでいく。

恋の至極は忍ぶ恋と見立て申し候。やっぱりここは日本だなと思った。

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