人の魂は数ではあらわせない[130/1000]

アイツは変わらず元気にしてるだろうか。仕事頑張ってるだろうか。彼女とはうまくやってるだろうか。いつも気前が良くてかっこいいが、本当は裏で苦しさを抱えて懸命に生きてるのだろう。また一緒に温かい飯を食らいたい。

あの人は元気だろうか。身体の調子は良くなっただろうか。仕事は無理をしていないだろうか。苦しさを言葉にしながらも笑う彼女の顔をもう一度見たい。

 

 

今朝の気温は1度。いよいよ寒さも厳しくなってきた。熱海のほうへ移動しようかとも思ったが、夏の暑いときは北国の涼しさを享受し、寒くなれば南国の温かさに逃げ込もうとするのは、いささか虫が良すぎると感じた。そんな風に生きれたら、きっと快適であることは間違いないが、快適はゴールではない。凍てつく寒さは、孤独に追い打ちをかけるように緊張感を高める。

しかし忘れちゃいけないのは、生の歓喜はいつも緊張の後にやってくるということだ。緊張を通じて死にきった者にしか、春の訪れはない。

 

 

最近、毎日のように書いてた葉隠思想は、思惑どおり現代人には受け入れ難いようで、この100日間の毎日投稿で少しずつ増えていた読者も、再び一気に減ってしまった。しかし、葉隠は私がこれまで美徳に感じてきたことを、見事に言葉にしてくれているのだから、私はこの厳しさの中に救いを感じざるを得なかった。

読む人が減るのは悲しいが、人の魂は数字で表せるものではないと今は思う。友達の数、フォロワーの数、いいねの数、子供の数、お客さんの数…..肉体の数ばかりが重要視される社会であるが、それはあくまで物質主義に基づいた物の見方にすぎない。

多くの人に読んでもらえたら嬉しいが、そこは私が重きを置く場所ではない。それよりも今は、どこまで自分の魂を成長させられるかに人生の関心のすべてを寄せている。このブログはあくまで、私にとって戦場の1つなのだ。自己と戦い、苦悩を重ねがらも、時に小さな勝利に雄叫びを上げ、ひたすら精進しつづける戦場なのだ。

 

同じように戦っている友は他にいる。私はいま自分の戦いに必死ゆえ、ここに戦跡を残すことしかできないが、これを見て鼓舞される魂があるのなら、私はとても誇りに思える。

 

精神修養 #39 (2h/88h)

寒さは鋭い痛みとなって肉体を貫く。耳や手足の指先が痛い。身体を温め、寒さを無意識のうちに退けようとするのは、肉体の自衛反応だ。だがこの自衛反応の領域内に留まっていれば、肉体を超えていくことはできない。

「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死に身となる」という言葉が葉隠にはある。凍てつく痛みも、自身を死身と思えば何ともなくなるのだった。毎日の瞑想の中で、学びを得ているはずだが、毎日のように我を忘れて肉体の自己に固執している。こうして繰り返し修行を重ね、肉体を超える経験によって、少しずつ鍛錬していくしかないのだろう。

 

[夕の瞑想にて]

苦悩の中で得られる安心がある。これは肉体から発せられる安心ではなく、魂から発せられる安心だ。虚無と孤独に潰されそうになっていても、静かに目を閉じていると、「それでいい。そのままいけ」と声が聞こえてくる。

「他人は誤魔化せても自分は誤魔化せない」と自分でもよく言ったが、これは即ち「自分を誤魔化さなければ、自分が肯定してくれる」ということだ。どうするのがいいのか、本当は自分が一番知っている。幸せとか不幸は、快と不快の感覚にすぎない。これに惑わされないこと。苦悩をもがいて、命を燃やすこと。

戦いはまだまだつづく。

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