運命の女神が顔を見せるとき。[320/1000]

おまえはどこからやってきて、おまえはどこに帰ってく。この世を旅する魂は現世の洗礼を受けて、肉体は老いるいっぽうだ。死んだら天に行けると思っているようだが、いったいおまえはどれほどの徳を天に積んだというのだ。堕落した生に相応しいのが地獄であることがどうして分からない。それとも、運命の女神に救済されることだけにすべてをかけているのか。だったら、堕ちるところまで堕ちてみろ。堕ちる強さを見せてみろ。どうせお前のなせる悪行などたかがしれている。

 

気づけばすっかり老けちまった親父の寝顔をながめていると、こんなヨボヨボになっちまって情けねぇなと思う。親父は私の引きこもりを境に急に老けちまった印象がある。引きこもりの息子を見てたまった気苦労が、引きこもりから抜けて気が緩まったときに、どっと出たのだろう。そう思うと申し訳がない。まだ死ねないと思ううちは、人は若さを保つのかもしれない。すべてが満足し幸せとなるとき、肉体は老いに抗うことも忘れるのだろうか。

 

親父に求めたのは、愛ではなく義であった。毎朝4時に規律正しく起き、5時になると規律正しく仕事に出かけていく。親父を尊敬するのはこの点だった。規律には美学がある。美学には魂がある。魂こそ男である。男は雄々しいのである。愛が抱擁によってなされるなら、義は背中で語られる。だからこそ、義を失う親父を何よりも軽蔑した。つまらない優しさなどいるものか。みっともなく、恥知らずに快楽に溺れてくれるな。仲良くなど御免だ。こんな生意気な堕落した息子などさっさと退けてくれ。己の内を貫く義が、男としての親父を跳ね返す。親父が俺を跳ね返さないのなら、俺から親父を跳ね返す。愛だけがすべてじゃない。みっともなくしてくれるな。男同士の間では退け合わねばならんことがあるんじゃないのか。

 

日に日に、両親と顔を合わせることが苦しくなる。己の義は愛を前にすると、粉々に砕かれそうになる。それを感じて、己は強がっているだけなのだと知る。本当は優しさにすべてを砕いて楽になってしまいたいのだ。しかし、強がらなければ男にはなれない。そんな思いが義を砕こうとする優しさに対抗し、義によって優しさを打ち砕こうとする。しかし、何度思いを巡らせても、自分を不幸に堕とすことは許せても、親を不幸にすることなどできるものか。親の幸せを願いながらも、あるところでは静かに軽蔑し、優しさに赦されたくても、赦せない矛盾に、結局家を飛び出して、一人自分の弱さを恥じることしか道を見出せない。

本当は、矛盾したもの同士がぶつかり合って、何もかもすべてが砕かれてしまうときに、はじめて運命の女神が顔を出し、愛が平等に注がれるのかもしれない。そこに行くには堕ちる強さがいる。己に足りないのは魂か。魂はどこまで人間を苦しめる。しかし、この猛毒を食らい尽くせないものだろうか。

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