森林を買うための契約書が届いた。[319/1000]

森を買うための契約書が不動産会社から届いた。

恥ずかしながら、契約というものについてこれまで考えたことがない。ただ今は漠然と、契約というものに宇宙的なものだけを感じている。自分の気が変わったからといって、屁理屈をとおすことも、わがままを振る舞うことも、契約は許さない。当事者が責務をまっとうするために、法の力の中に自身を刻印する。まるで、自己を犠牲にして、宇宙の大きな力に服従を誓うようだ。

神を信仰することと似ていると感じる。そもそも、法や契約は神を地上にあらわしたものであり、元をたどっていけば神に到達するのではないか。法律を破れば裁判にかけられるが、アメリカでは裁判で聖書の上に手を置いて真実を述べることを宣誓するように、すべては突き詰めれば、神との約束であり、それを個人レベルまでおとしたものが口約束というものなのかもしれない。

 

労働においても、何時から何時まで働く代わりに、いくら金をもらうと契約する。この契約により、主に服従を誓い、宇宙に服従を誓う。仕事が好きかどうか、自分に合うかなどの個人の好悪は問題とならない。契約を結んだからには、嫌でも労働しなければならず、服従と献身によって主に仕えることの先に、宇宙的な価値をみつける。私は今の仕事が好きではないし、自分に合っているとも思わないが、服従にごまかしがきかないという点で、純粋な服従と献身が試されている。

 

契約だけではなく、茶の作法や、軍隊の行進、音楽や数式なんかもそうだけれど、形式が洗練されたときに感じる美しさは、魂のそれと近いものが宿っている。好き勝手なことを書くこの毎日投稿も、秩序正しく形式が洗練されていけば、私という存在はかぎりなく小さく点となり、魂が宿るにちがいない。言葉は洗練された詩となり作品となり、魂となったものは、時間を旅して人間の心をさらうだろう。

 

何か大きなものの支配を受けて、自分たちの約束事を守ってきた。契約がなければ、騙し合いと争いがはびこるに違いない。平和のためには、絶対の存在を必要とする。契約書一枚見ても、神を志向する人間の産物だと思うと、なんとも感動する。

いつの日か遥か遠い昔、原付で田舎町を旅していた頃、一方通行に気づかず逆走して、警官にとめられたことがあった。警官は私の旅の気苦労に同情し、注意喚起ということで見逃してくれた。あの方は人間の法よりも、宇宙の法に仕えることを選んだのだと今は感じる。それが正しいことなのかは分からないが、少なくとも当時、ボロボロだった私の心はとても救われた。

人間を救うものが本物だと思う。契約も不自由に思えるが、この不自由さによって自己は傲慢からまもられる。悪魔の甘言は、こうした不自由を嫌い、自由になることをそそのかすが、本当にそれで人間が救われるのかを問われれば、私にはまだ疑問が残る。

 

本当の救いを求める。人間の心を救うものに憧れている。

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