悪が孤独の友となり、神はサタンと共闘してみよと告ぐ[482/1000]

科学革命がもたらされて以降、人類は電脳空間に「家」をつくった。今日では誰もが馴染みの場を持ち、毎日そこから旅立ち、毎日そこへ帰ってゆく。

 

電力が断たれ、草枕月記を執筆できなくなった私に訪れたのは大きな喪失感だった。家も家族も失って、朝荒んだ路地を凍えながら歩く、野良犬のような気持ちである。もしくは、マッチ売りの少女が、箱の中の最後のマッチを灯し終えた時の空虚である。

しかし、こうした感傷に浸り、悲劇を演じれば、大いなる物語の書き手は、人生をそのように執筆する。一人でいる間も、恥のないように、強く気高く朗らかであることを誓ったのだ。ならば、そうあれるよう演じようではないか。

 

神よ見てるか。どれだけ孤独の地に叩かれ堕ちようが、俺は這い上がる覚悟でいる。サタンよ、私に力を貸せ。散々、私を誘惑したお前であったが、私につけ入る隙はもうどこにもない。惨めったらしい付き合いはもうやめて、悪の力で我が孤独の友となれ。

深い孤独へ締め出され、あらゆる誘惑が断ち切られたことにより、あの強大な力にどうしようもなかった思いもよらぬ友を得た。これも神の導きか。共闘してかかってこなければ、私には遠く及ばないぞという導きか。

 

【書物の海 #12】ヴィヨンの妻, 太宰治(新潮文庫)

「なぜ、あじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ」

「女には、幸福も不幸も無いものです」

「そうなの?そう言われると、そんな気もして来るけど、それじゃ、男の人は、どうなの?」

「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるんです」

「わからないわ、私には。でも、いつまでも私、こんな生活をつづけて行きとうございますわ。」

(略)

「僕はね、キザのようですけど、死にたくて仕様が無いんです。生まれた時から、死ぬ事ばかり考えていたんだ。皆のためにも、死んだほうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでいて、なかなか死ねない。へんな、こわい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです」

 

死に親しみたくなる時は「ヴィヨンの妻」を観ると、そんな気も和らいでいく。元気のないときは、元気が出るものに触れることが一般的であるが、ヴィヨンの妻は、死にたがっている大谷が、心中を試みるという、暗鬱な場面がある。それで死ぬ気が和らぐのは、死ぬ気の元となる、生の煩わしさが微塵もなく、その透明なものに癒されるからである。原作もいいが、心中が起こるのは、映画のみであり、映画の悲壮な雰囲気も含めて、私は映画が好きである。

 

2023.10.15

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