自分を死なせるとか物騒なこと書いて申し訳ない③[183/1000]

もし大切な人が、あなたを生かす代わりに、自分の死を選んだら、あなたはどう感じるだろう。どちらかの命しか生かすことができない2者択一を迫られる瞬間を昔から繰り返し想像してきた。そして大切な人を生かすために、自分は死ねるだろうかと問いながら、自分の死を選べる人間になりたいと子供ながらに思ってきた。

 

毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になることが、その実践手段であることを、昨日改めて認識した。上記のような究極の死にかぎらずとも、日常において自分を犠牲にして人の為に生きる瞬間は多くある。日々の小さな実践においてすら自分の死を選べないなら、究極な場面で大切な人を生かす願いは到底叶わないだろう。遠別岳で山ごもりをしたことをきっかけに始めた朝と夕の瞑想が、今となっては、偶然自分を死なせることの役目を果たそうとしてくれる。

 

本当は自分を死なせるなど人目に晒されること自体が恥ずかしいもので、ひっそりと一人死んでこその美学だとも感じている。もし大切な人が同じように、自分を犠牲にして私を生かそうと試みているのを知ってしまえば、悲しくなる。自分は死んでもいいけど、大切な人には生きてほしい。この思いが相互に行き交うほど、自分を死なせることは陰でひっそり行われなければならない。

 

肉体から見れば自己犠牲は悪であるが、魂から見れば自己犠牲は善である。肉体は一生を生き延びることだけを考え、魂は一生の内、どれだけ自己を犠牲にして人に尽くせるかが試練として課せられているように思う。人によっては尽くす対象がキリストやブッタや武士道や天や芸術かもしれない。

一生を無駄にしてもいいからあなたにすべてを尽くしたい一心は恋と同じ。自分を死なせるとは恋に生きることに通ずる。だから葉隠は恋の哲学とも言われた。自分を死なせて、対象に恋焦がれるエネルギーを糧に生きた。自分が生きるほど、恋の背丈は低くなり、欲望に近づいていく。

 

自分を死なせても、恋があるかぎり、人生は真赤な青春となる。何歳になっても自分を死なせるかぎり青春は死ぬまで続く。だから生きる理由など恋だけで十分だと思った。肉体だけを見れば、青春は若かりし頃の特権のように見なされるが、魂から見れば、葉隠が言うように、人間の一生など夢のように僅かなものですべてが青春なのだ。

死を選ぶかぎり、青春はつづく。恋を一生忍ばせて、真赤に人生を染め切ったまま命を終えれたら何とも誇らしいかな。

 

精神修養 #94 (2h/196h)

マイナス6度。冷気が衣類を貫通して身体は凍えているはずだが死にきらない自分がいる。馬鹿げたことを永遠と考える自分に、何とも自分の肥大化作用とは、生命力があるものだなと感心している。

寒いと背筋が丸くなって無意識に熱を保持しようとする。それに気づくとき、背筋をピンと伸ばすだけでも自分が死に向かっていく感覚がある。寒さに怯える自分はいるが精神修養においては、もってこいだと感じる。

 

[夕の瞑想]

毎朝毎夕、改めて死ぬという葉隠の実践が、この瞑想となっている。やっていることは、自我の執着を断つことであるが、「自分を死なせる」という表現を用いたほうが、私にはしっくりくる。

どれだけ自分を死なせても、問答無用で生き返るのが「自分」だから、死なせることに遠慮はいらない。死ぬことを考えると、寒いのはむしろ都合が良い。凍え死ぬことにも、飢え死ぬことにも向かうつもりで、このまま死んでいけば宜しい。

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