輪廻と再生。時代を嘆くことはナンセンス[540/1000]

輪廻を信じるか。

エネルギー保存法則を考えれば、われわれの肉体の源泉となる超越的存在が、肉体の破滅とともに消滅するとは思えない。しかし、ひとりの人間に宿っていた霊魂が、そっくりそのままの個体性を残したまま、いわば鬼火のようなまま、つぎの人間に入っていくとも思えない。

 

あくまで生活体験から編み出した直観である。この宇宙における四大である地水火風の、火にあたるこの霊魂が、個体、液体、気体よりも細かな粒子であることは確信をもっていえそうだ。粒子が細かくなるほど、全体に溶けていく。氷はひとつひとつの個体性があり、混ぜてもひとつひとつを区別できる。しかし、水が混ざれば、もう見分けることは困難だ。水蒸気になれば、もう目にも見えやしない。それよりも、さらに粒子の細かい、われわれの超越的存在である火が、はたして個性をたもちつづけることは可能であろうか?

 

そう考えると、輪廻よりも、再生のほうがしっくりくる。個性はなく、根源、全体へと立ち返ったものが、再び人間の意識下で認識されるのだ。当然、個体性である現世の記憶は引き継ぐことができない。逆に、もし前世を語る人間がいたとしたら、ある意味、彼らは正しいといえる。なぜなら、われわれは何者でもないかわりに、何者でもあるからだ。

 

再生を思うとき、時代を嘆くことがいかにナンセンスであるかを思い知る。われわれはどの時代にも生きたといえるからだ。縄文時代の原始生活をしていたともいえるし、戦国時代には武士として戦いに明け暮れていたともいえる。時代がわずらわしく感じられるのは、時代に起因するものではなく、現世一般としていえることだろう。苦悩に満ちた現世が苦しいから、時代に責任を押し付けたくなるということである。

 

ここで人間の哀しい性が出てくる。困窮と退屈だ。

人間は山道の下り坂を不安定に走り続けているようなものだと、ショーペンハウアーは例えている。この瞬間も、絶えず外界からエネルギーを取り入れて、新陳代謝を繰り返し、決して歩みを止めることはない。つまり、人間は飽くことなく困窮しつづけ、幸福を求めつづける。しかし、いったんそれが成就すれば、退屈して再び困窮状態にならざるをえない。

 

先日も書いたけれど、歴史的にみれば、自由も幸福も既に成就している。それが到底信じられず、真に自己と一体化しないのは、生命を燃やしつづけることが、生命の唯一の関心であり、自由や幸福は、言葉を選ばなければ、生命が燃焼するためだけのダシに使われているにすぎないのだ。

常にかわりつづけ、走りつづける。とまることのできない人間には、幸福のどこか一点のうちに、安住することができない。走りつづけ、知性をもとめつづけ、飢えつづけ、それこそが幸福の手段であるように思えて、実は結果である。この渇きこそが、生命そのものであり、生命の愛すべきところである。

 

2023.12.12

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