人生への漠然とした虚無感/死にきれないことの苦しさ[129/1000]

暇だと鬱になることを別の言葉で表現すれば、生きることも死ぬこともできない人生に対する漠然とした虚無感だと言える。息を吸うには、先ず吐くことが必要であるように、生きるには死ななければならない。巷でよく聞かれる「生きている実感」は、死から帰還した際に、命が放つ反動だと感じる。この反動が自分を垂直に引き上げる。

死ねない日々が続く私は、安心に固執しているのだろうか。思えば随分と長いこと諏訪湖にいる。死にたいと思いながら、どこに向かえば死ねるのかが分からず、結局今日も死にきれない1日となる。「どうすれば今日を死ねるのか」をひたすら問うている。これは私の覚悟の問題なのであろうか?

一方で逆説的ではあるが、今こうして虚無と孤独に発狂しそうになる私は、ある意味死ねているとも言える。死にきれず死んでいるという変な状態。死ねないことを誤魔化していないおかげで苦しむことはできる。

どうすれば今日死ぬことができるのか。どうすれば死んで、思いっきり生きることができるのか。ニヒリズムに潰されそうになりながら、死ねないなら、死ねないまま、今を存分に苦しむ。見苦しく問い続ける。

 

精神修養 #38 (2h/86h)

雑念はまるで「思考の雑音」のようだ。耳という感覚器官を通さなくとも、頭の中に鳴り響く思考は、ノイズのように無造作に散らばる。こうして日々をノイズの中で生きている。

雑念(雑音)の多少は、何によって決まるのだろうか。1時間の瞑想において、前半は雑念だらけでじっと座り続けることもままならないこともあれば、後半は嵐が去ったように静寂に包まれることもある。思考の嵐は、ただじっと眺めていれば、いつかは静まるものなのだろう。下手に嵐に応戦し、身ごと風にさらわれれば、いつまでも嵐は止まない。

瞑想の真髄は、静観するときの「魂と繋がる感覚」にある気がする。ノイズは肉体が発するもの、つまり水平に存在するエネルギーだ。一方、魂は垂直に働くエネルギーである。だからノイズを断ち切ると、自己が水平から垂直へと移り変わる瞬間が訪れる。

 

[夕の瞑想にて]

二つ一つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり、という葉隠の一句について思考を巡らす。

生きたと誇れる瞬間はいつも死ぬことができていた。これまでに通過した一瞬の死が、時間の枠組みを超えて、何度も何度も、誇りとして呼び醒まされる。一方、死ねなかった今日の記憶は、時とともに薄まっていき、最後には自分からも見放されるように忘れられてしまう。時間の空白だけが虚しさとなって、自己に襲いかかる。

毎日、死ぬことができたら、どれだけ誇らしくあれるだろう。「今日死ぬためにはどうすればいいのだ」と問うては、見つからない答えに見苦しくもがいている。

 

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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