三ヵ月ぶりの世俗に感じること[563/1000]

文明生活に舞い降りた。

なるほど「夜」を克服し、「寒さ」も物ともしない。温かい湯船に浸かりながら、ベートーヴェンの音楽だって聴ける。快適なぬるま湯につかりながら、自然に叩かれて強くなるのが生命だと断言できそうだと思った。もっとも、働くことこそ、生命を叩きあげる最適の道だろう。

世俗へ舞い戻り、色々と感ずるところを書き残してみよう。

 

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第一に、脳髄が強化された。難しい本にぶつかり続けていたこともあり、知性は明らかに上達し、分からないことも分かるようになった。だが、知性の発達は第二義である。素朴な習慣によって脳髄が鍛え上げられ、強化されたからこそ、追随して知性も上達したのである。

思えば、われわれが馬鹿になるとは、「知性」そのものが衰えるというよりは、脳髄が衰弱したことに対して言われることが多いように思われる。老いもその一つであるし、虚飾に満ちた享楽を無力に貪り、反射的行動のなかで脳髄が衰弱していくことも現に起こっている。たとえば、私はスマホが手放せなくなり、これは生命を殺すと思って、海に投げようと思っても、手から離れなかった。これも脳髄の衰弱である。

処女が貞操を何が何でも守るように、私もまた男として小さな誓いを立てている。それは、快適なベッドで寝ないことだ。実家に帰っても、私は近所の山に行ってテントで寝るか、車で寝る。これは文明から脳髄を守る最後のささやかな抵抗のひとつだ。

 

第二に、人々の健康に向かう関心の異常さである。われわれは、もっとも大きなものに関心を抱くべきではないのか。ランニングは、絶対善のように思われる。なぜなら、ランニングは意志と努力を必要とする生産的な習慣であり、今日の道徳を見事にまっとうするからだ。しかし、ここは冒険して、ランニングは悪だと言おう。それが「無気力」の原理で動いているならば。

強靭な肉体をつくることは、男を男にする。だが、これは闘うための精神との双璧として獲得するべきであり、その根底には死の原理があるべきではなかろうか。健康づくりは、生を自己目的とした代表的な例である。明るく健康的な目標は、正しいことのように思われるが、背後のおそろしい虚無を無意識に肯定することに、私は人道を見つけられない人間だ。

 

第三に、私は隠遁のなかで、厭世と悪意の奥底を見極めたつもりであったが、依然と現世については、悲観しているらしい。太宰治は「斜陽」のなかで、この世を生き抜く三つの道を皮肉に悲観的に表現している。一つ、都会に出て「コンチャア」と言うこと。二つ、帰農すること。三つ、自殺。つまり、魂を道化のうちに悶絶させ商人となるか、さもなくば、道化の及ばない百姓になるかという大きな二つの道を示す。

商人にも、商業精神なる美しいものはある。精神は独立自尊であるため、武士道を貫けるかどうかは、すべては自分の力次第だ。ただ、私の悲観は、おそらく森とのギャップのありすぎる現実社会を前にしてのショックからきているようである。森はあまりにも、美しすぎたかもしれない。

 

第四に、脳髄の衰弱は、すでに始まっているかもしれないと戦慄する。便利に馴れるのは早いもので、あっという間に肉体は虜にされ、本能は闘争機会を失う。古典的習慣だけは守らなければならない。素朴な習慣に煥発する感情の力を守り、己のうちに文化を築き上げていくことこそ、魂の救済、生命燃焼に直結していくからだ。古典的習慣、書物を読みつづけることだけは、何が何でもつづけよう。

 

2024.1.4

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