文明に飼いならされず、文明に生命をぶつけること[282/1000]

文明に飼いならされるとき、生命の実感を失う。野性を失い、無菌で血のない清潔な生活に覆われる。

文明から弾き出されるとき、生命は虚無となる。義を失い、道を失い、何のために生きているのか分からなくなる。

 

飼いならされないよう抵抗し、飛び出そうとすることで野性は生まれる。

しかし、野性が大きくなりすぎて、文明から弾き出されては、人間であることができない。ここは理性で押さえつけなければならない。

この前後内外の抵抗の中で生命は圧縮され、地上に生まれ落ちた一個体としての感触と、人間としての主体的な生命自覚を得る。

 

文明に対抗するには、便利と快適と流行りに惑わされないこと。つまり、不便と苦しみと古典を愛すること。

文明から弾かれないようにするには、文明の中心を貫く、不合理な仕事を耐え忍ぶこと。

 

古いものを愛し、生命を現世に捕らわれない永遠のものだと自覚し、その上で、文明の中心を貫く、不合理な仕事に、己の生命をぶつけていく。

ここに、野性と理性の両立を見つける。この葛藤の中で、道徳は破られ、道徳を破った恥に苦しみ、人間は美しくなっていく。

 

一つ私の話を。

会社のために自己を犠牲にするか、それとも自己のために会社を犠牲にするか、みたいな選択を迫られた。

私の仕事の美学は、自己犠牲を基礎とした服従と献身であった。しかし連日書いていた、「こんなもののために死んでたまるか」という自己の悲痛な叫びを無視できなかった私は、美学に反して自己を救済し、会社を犠牲にすることを申し出た。

 

私の申し出は、人間礼賛の現代道徳によって、あっさり受理された。

するとどうだろう。文明の不合理を、合理に書き換えてしまった私の生命が、なんともしょぼくれるのを感じた。

 

血は止まって楽になったが、血を流していた時の方が、生命的には生きていたと思った。

苦痛に耐えきれなかったから、結果として私は伝えることを選んだけれど、本当に生命のことを思うなら、あの苦痛に耐えるべきだったかもしれないと感じている。

もっとも、こう感じるであろうことは何となく予想できていたし、私が今日、仮にもう一度あの苦痛を浴びれば、耐え切れなくて同じ行動をとるだろうが。

 

苦しみを嫌うが、苦しみがなくては生きられない。

この人間の悲劇と不幸を超えていくには、何度も何度も、苦痛にぶつかって、苦痛を自己に消化することを諦めちゃならんのだろう。

苦しみを愛せ。文明の不合理を愛し、理不尽を愛し、あらゆる人類の苦しみを愛せ。

ただ一つ、心に思い描くのは、戦場の荒野で、血だらけになりながらも、雄々しく剣を掲げる勇姿である。それが人間だ!

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