いよいよ森を購入した。[315/1000]

月曜日の倦怠が、心に重くのしかかる。たえられない肉体は、まどろみのなかへ逃げこむが、二度寝を終えたころには、透明で神聖な朝はもういない。世界の人が動きはじめれば、この空気は神秘を失い文明のものとなる。仕事に向かう父親は、スーツをまとい、愛から義へと姿を変える。子供たちは行儀よく列を組んで学校へ歩いていく。月曜の倦怠をはねのけて、自己を律して生きる立派な人間のおかげで、今日も文明の秩序は保たれる。

 

毎日の言葉は、なるべく早朝に綴りたい。神や詩の心に触れたいのなら、世界の空気が文明に染まる前でなければならないように思う。今日のように二度寝して、既に太陽が高くあがってしまえば、時すでに遅し。言葉から透明性が失われ、詩の心が失われ、物質的になっていく気がする。

早朝と深夜は死を感じる時間で、喧騒に生きる日中は物質的になりやすい。実行動においても似ていて、早朝や深夜の静寂のなかでは、瞑想や散歩や音楽や読書といった、勇気を必要とする行動が生まれやすい。勇気は宇宙の心である。世間が賑やかになれば、物質的となり、自堕落も起こりやすくなる。死と生が繰り返されるリズムをここにも感じるのだ。

 

物質的な言葉は、現世の記録となる代わりに、永遠との結びつきが弱くなるという点で、あまり好まない。しかし、現実のことも記さなければ、浮世離れして不便に染まる一方なので、この機会を借りて、自分のことにはなるが、最近のことも書いてみたい。

 

先日、いよいよ森を購入した。場所は長野県富士見町。金持ちではないので、そんなに広い森ではない。八ヶ岳の麓の高原で標高は1000mくらいあると思う。冬はマイナス10度までいく。かつてはすぐ隣の小淵沢の高原で家のない生活を1年していた。その時に森で暮らしたいという気持ちが生まれたのであったが、約5年の月日を経て、ようやく近い土地の良き森に巡り合うことができた。

今は、譲渡段階にあって、実際に森で暮らせるようになるまでは、まだ一か月くらいかかりそうだ。その日を辛抱づよく待ちながら、今は木を伐るために必要な道具や、小屋を建てるために必要な道具を揃えている。チェーンソーは、木が悲鳴をあげているように聞こえて苦手なので、ノコギリと斧を使う予定でいる。木が密集していて、木を倒したときに別の木にひっかかる、かかり木というものも起こるだろうから、それを引っ張るための牽引道具や滑車も必要となりそうだ。直径は30~40cm、背は10~20mくらいあるだろう高い木を伐ることになる。もしぶつかればあの世行きになるから、まちがっても、自分のほうに倒れてこないようにしなければならない。

長年、家のない状態だったので、いよいよ帰る場所ができると想像するだけでも救われた気持ちになる。こんな幸せを私のような人間が授かってもよいものか、直前まで葛藤していた。なんなら、今だってここに罪の意識を感じるくらいだ。先日も書いたけれど、森の主は私ではなく精霊である。私は森の番人であり、管理人にすぎず、必要とする人がいつでも来られる森にしたいと思っている。

 

また森の暮らしについては、追々書いていきたい。とりあえず今日は、物質的な記録として、森についての状況報告と、今後誰かとの交流のきっかけになる可能性を信じて、ここに言葉を残したい。

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