散っていく花びらの中に、永遠の自己を見つけるとき…[286/1000]

温かい季節になった。道を歩けば、野には黄色い花々が広がって、風によって甘い香りが運ばれてくる。少しずつ開いていく桜の花びらを毎日眺めながら、満開になる日を今か今かと待ち侘びている。道端の花を一輪摘んで部屋に生けると、なんと心が潤うだろう。極寒の孤独で本当に渇望していた春が、ようやく訪れたようだ。

 

連日、虚無について書き連ねているけども、花を見るときは、一度も虚無を感じたことはない。永遠ではない命に、永遠を感じているのだ。かつて戦争で命を落とした祖先は、死んだら靖国の桜の花びらとなってまた会おう、と戦友に言葉を残した。その心は今日の人間と同じように、儚い桜の美しさに永遠の心を感じていたと想像する。

 

永遠ではないことを信じたとき、永遠が訪れる。逆に言えば、永遠であると信じたとき、虚無が訪れる。

 

これを考える時、私はあるキリストの言葉を思い出す。ルカによる福音書13章、ファリサイ派の人が「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」とイエスに言う。そのとき、イエスはこう答えた。

「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」

自分が殺されることが分かっていても、イエスは愛の教えのために、殺されるであろう地に自ら向かった。愛の教えのために死んだとしても、イエスの魂は永遠を生きられた。現世の命を乞うて、山に隠居することなど、虚無でしかない。イエスは、現世が永遠でないことも、愛が永遠であることも信じていた。

 

別の角度から、ゲーテの「ファウスト」のある言葉を思い出す。メフィストフェレスに死んだら魂をやると契りをかわすとき、メフィストフェレスはファウストに、「本気ですね?忘れませんよ?」と注意を促す。ファウストはこう答える。

「己がもう前へ進もうとしなくなった時は、己が奴隷になるときだ」

これは、悪魔が相手だろうと、前に進むべきときに進むのが、人間だといったのだと思う。運命が、善も悪も含む以上、善人だけになろうとしては、運命をまっとうできないのだと思う。堕ちるべくして堕ちたなら、仕方がない。自分にできることは、ただ前に進むことだけで、前に進まないとき、自己は奴隷のように不自由になる。

 

永遠に向かいたいとき、これら2つの言葉を思い出す。

死を恐れて前に進めないことも、悪を恐れて前に進めないことも、人間の弱さとしては仕方がない。

これを超えて前に進むには、魂しかないと、今は思う。動物に動物は超えることができない。現世の弱さを克服するのは、永遠の魂だと信じる。

横は見なくていい。遠い憧れだけを見よ。そこに向かおうとすれば、現世は前に動いていく。前にすすむのは、憧れの結果だ。花を見て、美しいと思い、散っていく永遠に自己を見つけたら、きっと前に進まずにはいられなくなる。

ここに魂の救済がある。

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