運命への愛(amor fati)[287/1000]

川沿いの桜並木道を、永遠の風が吹き抜ける。

永遠を感じることは、死を想うことと同じであろう。

美しく咲く桜を見て、同時に儚く散る桜を想い描く。

美しさが包む死と、死を包む美しさに胸は打ちひしがれるのだ。

日本人として生まれ持つこの繊細な感受性に苦しめられるも、

その裏側では死を汲み取ることができるほどの心を育んでいる。

自然豊かな四季に恵まれたこの日本の大地に生まれ落ちたことに、

どうして運命を感じないでいられようか。

万葉の頃からずっと、我々は詩の心で涙を拭ってきた。

儚く散っていく自然の中で永遠の命に触れて、

すべての悲しみも安らぐような心地よい風が、

人々を遠い彼方まで運んでゆく。

 

 

最近は、宿命というものが少しずつ分かるようになってきた。

この大地に生まれ落ちたその時から、通らざるを得なかった道がある。

それらの道が、魂や生命燃焼と結びついたとき、宇宙的な意味を帯びて時間の中から浮かび上がってくる。

ここに必然が絡むとき、ああ、これは宿命だったと認められ、憎きが愛しに変わっていく。

 

私にとって、鮮やかに移り変わる自然豊かな日本に生まれたことも、繊細な感性を持つ日本人として生まれたことも、武士道の魂ある日本に生まれたことも、すべては宿命だったと感じる。

神を失ったこの時代に生まれたことも、虚無に絶望して生きることが分からなくなったことも、文明から弾かれ生命が孤立したことも、すべては宿命だったと感じる。

人生の虚無にぶつかることも、現世の悪魔と戦うことも、すべてはずっと遠い彼方に憧れていたからこそ、起こりうる必然だった。

 

現世の小手先でどうあがこうとも、遅かれ早かれ、必ず通らざるをえないものがある。自分の意志でできることといえば、それが起きようとする時機を後ろにずらすことが精一杯のもの。しかし大体の場合は、地上の意志など宇宙の力の前では無力に等しく、知らず知らずのうちに、運命に飲み込まれている。冬の間はじっと耐え忍び、爽やかな野花と共に運命を自覚する。

宇宙的な力は、我々生命の見苦しい言い訳など、はなから相手などするつもりはないようで、勇気がないとか、準備ができていないとか、そんな低次元なものは、てめえでどうにかしろと言わんばかりに容赦がない。ただ一方的に降りかかるこの運命は、人間の都合など考えちゃくれない。必ずしも人を幸せにするものでもない。文明から人を弾くこともあれば、道徳を破らせて悪に染めることだってある。

 

amor fati

運命への愛

 

ニーチェのこの言葉の真意をまだ掴めていないが、運命は不幸や悪を含んでいる。これらを愛せるかどうか。不幸を受けれ、悪を受け入れ、それでも生命を生かしたいと思うか。

宿命の認識がされるほど、運命への愛が深まるのを感じる。文明から弾かれ孤立し、なんだかんだあり、今は再び文明にぶつけようとするこの生命を、私は宇宙視野から愉しんでいる。結果として生じる現世は、恥ばかりのものだけれど、私はこの生命の行末を見守ることしかできない。その結果、さらなる不幸と悪に染まることがあろうと、運命の流れに身を委ねることこそが、運命への愛だと信じている。

それにはやっぱり、地上的な未練があっては、まっとうできないものだし、宇宙的な神秘を信じる勇気がなくてはならない。そういった意味で、人間の弱さとも向き合わざるをえないことが、人間として生まれた宿命だと思っている。

運命への愛を渇望するのは、これが生命燃焼そのものであるからに違いないだろう。

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