神から人に与えられた想像という力は、幸せになるために使おう[74/1000]

青森は弘前、森のイスキアにいる。ここにきて、今日で4日目になる。

(先日のブログを読んでなくて、森のイスキアを知らない人へ→心が傷ついた人たちを迎えた、森のイスキアにきて感じたこと[72/1000]

 

今日も森のイスキアには誰もいない。目の前の別荘に住んでいる、おっちゃんもいない。

ザーザー降りつづける雨も相まって、少し寂しい気持ちになるが、家を眺めていると、初女さんの色んな姿が、想像となって脳裏で再生される。

 

こんな雨の日も、穏やかな笑顔で、傘をさしてこの道を歩いていたのだろうかとか、あのデッキが雪で崩壊したときは、さすがに困った顔をしただろうかとか、天気のいい日にはこの庭で、訪客と一緒に静かにおむすびを食べたのだろうかとか、こんな間近から、初女さんの鳴らす鐘を聞いたら、どんな感じなんだろうかとか。

生前にお会いできなかった私は、初女さんの本や映像、人のお話から、こうして想像することしかできない。

 

6,7年前に、今私がいるこの場所にいれば、きっと、初女さんはここにいただろう。

同じ空間にいても、時間や時代が違えば、人に会うことはできない。それは、とてもとても当たり前なことだけど、想像すればするほど、哀愁は深まっていく。

今ここには、私1人しかいない。

 

4日前、初めてここにきたとき、ついドアをノックしている自分がいた。

ドアをノックしたはいいものの、「人が出てきたらどうしよう」となぜか緊張している私がいたが、もちろんそれは杞憂に終わり、家からは何の反応もなかった。

 

もし、初女さんがいらっしゃったら、私は今、どんなお話をするのだろうと、ふと思った。

しばらく目を閉じて、静かに内観してみたけど、具体的に何を聞いてほしいとかは、まとまらなかった。

 

その代わり、初女さんはどんな他愛のない話でも、穏やかにうなずいて聞いてくれて、初女さんの存在そのものに、私は温かさを感じているのを想像できた。

・・・こんなことを書いていると、「あなた、ちょっと私を美化しすぎよ(笑)」と天国から言われてそうだ。

 

 

お会いしたことがないから、こうして想像することしかできないけれど、想像ばかりしていても、今ここにある現実の世界を見なきゃ、仕方がないね。

でも、想像するだけ想像したら、森のイスキアでやり残したことがないような気持ちにもなった。想像で補えることもある。いや、正確には、想像をとおして、初女さんと出会って、言葉をもらえたような気がしたから、私の心は満たされたのだろう。

 

幸せになれる想像は、どんどんしていきたい。デイドリーマーになりすぎて、今ここを生きられなかったら本末転倒な気もするけれど、神から人に与えられた想像という力は、幸せになるために使ってなんぼじゃないかな。

 

1つ大きな心残りは、初女さんの炊く玄米で、初女さんの握るおむすびを、食べてみたかったということ!

一緒に玄米おむすびをつくって、一緒に食べてみたら、どんな感じだったんだろうと、こればかりは心残りで仕方がない!

 

だから、美味しい玄米おむすびは、自分でつくることに決めた!

美味しい玄米おむすびを、誰かに食べてもらうことも、勝手ながら私がやろう。

 

昨日は、「つがるロマン」という青森の玄米を炊いたけど、これも香ばしくて、とても美味だった!

たぶん、私のおむすびは下手くそで、お米の炊き方もまだまだだけど、なぜか玄米への愛はすごくあるから、きっと元気モリモリになるように、気持ちだけは乗せられるような気がする。

 

 

今日も昨日につづいて雨だけど、とても静かで、スズムシやコオロギの鳴き声がよく聞こえる。

森のイスキアの大きな愛とともに、今日を生きて、今日を労おう。

 

じゃまた明日ね!

ばいばい!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です