生きても大丈夫だと思えた世界と、今も同じ世界にいるから大丈夫[75/1000]

青森県弘前市、岩木山のふもとにある森のイスキア近くの公園にいる。ここにきて今日で5日目になる。

昨日、森のイスキアを去ることに決めて、「ありがとう!」「お邪魔しました!」と空間にお辞儀をして、場を立ち去った。

 

そのまま次の場所に向かおうかとも思ったが、ここ最近、移動がつづいて、もう少しゆっくりしたいと思ったので、近くの静かな場所にとどまることにした。

 

今朝、2日ぶりに晴れてくれたので、初めてこの地を散歩をしていると、また森のイスキアに行きたくなった。

昨日、別れを告げたばかりだったが、行きたいなら行こうと思った。そして今日こそ、本当に最後になる気がした。

 

 

森のイスキアに向かいながら、「心の拠り所」とはこういうものなのかなと思った。

初女さんは天に召され、いま森のイスキアには誰もいない。しかし、森のイスキアに行くと、「それでいいんだよ」「そのままでいいんだよ」と、すべて丸ごと肯定してもらえるような気持ちになる。

 

今朝、私が森のイスキアに行きたくなったのは、散歩中、通りすがりの犬を連れたおじさんに挨拶をしたときに、目も合わないまま心ない挨拶が返ってきたときだった。

こんなことでも、世界が分からなくなってしまう。自分が世界の一員じゃないような気持ちになって、生きてちゃいけないような気持ちになってしまう。

 

だから私は、森のイスキアに行って、確かめたくなったのだろう。

自分が生きても大丈夫だと思えた世界と、いまも同じ世界に生きていることを知って、そのまま生きてもいいことを確かめたくなったのだと思う。

 

心の拠り所は、自分が生きてもいいと思えた世界と、同じ世界に生きていることを思い出すためにあるのだと思った。

世界から孤立しそうなとき、共に在ることを知るためにあるのだと思った。あなたと私は同じ世界にいると、言葉をいただくためにあるのだと思った。

 

いつも生きちゃいけないような気持ちになるとき、温かい世界から切り離されて一人になる。

一人になってしまったように感じても、少し歩いたら、森のイスキアはちゃんとそこにあった。

 

人は、どこかしら心の拠りどころをもたなければ、孤立して、冷たくなって、生きることが難しく感じちゃうような弱い存在かもしれないけど、心の拠りどころをもったら、強く、温かく、人に共に、生きられる存在でもある。

 

そんなことを、森のイスキアで感じた。

 

 

さてそろそろ、森のイスキアから、次の場所に移動したいので、最後に初女さんの言葉を紹介させていただき、ブログを終わりにしようと思います。

「おむすびの祈り」が手元にないので、「限りなく透明に凛として生きる」の一部ご紹介です。

森のイスキアの窓の外に美しく光る葉は、一枚一枚が”透明”です。人もまた、このように”透明”になって生きていきたい、わたしは、ずっとそんなふうに思てきました。

 

人というのは、常によくなりたい、まわりによく見せたいというのがありますから、自分が話すときに、何か余分に自分を説明するようなことを言ったり、相手を喜ばせるようなひと言をつけ加えたりしたくなります。でも、わたしは、そういったことは”透明”に入らないのではないかと思うのです。

 

何かになろうとしなくても、それはすでに自分の中にあるものです。

透明になって真実に生きていれば、それがいつか必ず真実となってあらわれます。

だからわたしたちに今できることは、ただ精一杯、毎日を真面目にていねいに生きていく、これだけだと思うのです。

 

毎日を生きていく中でわたしは、信仰というものをはっきりと中心におきたいと思っています。

信仰というと、教会でお祈りするようなイメージを持たれますが、わたしにとって信仰とは自分からするものではなくて与えられて受けるもの。

信仰の原点は素直さです。

祈りもまた生活そのものですから、おむすびを握ることも、ぬか漬けをつけることも、すべて祈りなのです。

“自分”が大きくなりすぎているこの時代こそ、わたしは生活の中に「信仰」や「祈り」を入れていき、素直な心で「はい」「ありがとう」「ごめんなさい」と言えることが透明に近づく第一歩ではないかと思うのです。

 

また初女さんは「マザー・テレサの祈り」を生きる指針とされていたようです。

讃美歌にもなっていますので、こちらもぜひ聞いてみてください。

 

では、今日こそ、森のイスキアとお別れ!

本当にお邪魔しました!また、きっと人生のどこかで遊びに来ます!ありがとうございました!

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