迷ったら感情の動く道を選ぶこと。試しに感情を動かしてみること。

深夜0時22分。世田谷区下北沢の南口商店街を歩いている。

お酒に気持ちよくした男女が肩を組んで、愉快な奇声をあげている。ロシア系の外国人グループが、手でリズムを刻みながら楽しそうに歩いている。右手にスケボー、左手に缶チューハイを持つ男性は、ガールズバーのキャッチらしき若い女性に近づいたと思えば、一瞬のうちに意気投合して、どっかに消えていった。

意外にも、私はこの空間に居心地の良さを感じている。彼らの内に拘束されていた日頃の鬱憤が、清々しいほどに解き放たれているのを感じていた。無法地帯というには大袈裟だけれど、社会の監視の目から解放され、長いこと渇望しつづけた自由を心の底から謳歌しているように見えた。それは夜だけのひと時のものかもしれない。朝になれば真面目な社会人へと戻っていくのかもしれない。

しかし、少なくとも今ここにいる彼らは、愉快な感情を剥き出しにした生身の人間であることに嘘はない。私は生身の人間が集うこの場の体温をちゃんと感じられた。品が必ずしもあるわけではないが、不思議とこの空間は嫌いではなかった。

私は夜遊び歴はほとんど無い。都会に住んだこともほとんど無い。しかし、こうした夜の街にしかない独特の世界に触れると、都会も悪くないなと思う。

 

1日の疲労で立っていることもやっとだったので、満足した頃合いで観察を切り上げた。その辺に落ちている段ボールを1つ拾い、適当に横になれそうな場所を探す。友人は気を遣ってホテルを取るよといってくれていたが、私は迷わず「野宿をする!」と伝えた。感情が動く方を選びたいと思った。

昨日、東京は管理が厳しく、上野公園で野宿をしていたら追い出しをくらった記事を書いた。東京野宿の難易度は高いと思い込んでいたが、意外にも眠れそうな場所はすぐに見つかった。東京といえど、少しの間身体を休める場所くらい、探せばいくらでもあるのかもしれない。私は木影の凹んだ場所に、段ボールを敷き、身体を横に休めながら、今日の出来事を振り返ることにした。

東京で暮らす友人と、高尾山を登った後、5年前ヒッチハイク日本一周をしていたときに長崎の佐世保で出会ったFさんとCさんに再会した。5年ぶりの再会に感動しながらも、飲み会風のノリを苦手とする私は、会話の流れに乗れないまま、黙々と食事をするしかなかった。

私は核心を交えない、呼吸の浅い会話が苦手だ。いつも遠目で、輪に溶け込むことができれば、どれだけ楽しいだろうと思う。しかし私は、その楽しさを求める以上に、問いに対し、自己の内側を探求し、冒険し、共有し、感動し、笑えるような真心のある会話に価値を感じる。

この種の会話は、湿っぽいとか、真面目だとか思われるのが怖くて、自ずと打ち出すことができない。坂爪圭吾さんも同じことを言っていた。久々の再会で盛り上がっているところに、水を刺すことになれば申し訳ない気持ちになる。結局私は、適当に相槌を打ち、黙々とお茶を飲み、黙々と食べつづけるしかなかった。食べ物は美味いが、感情は動かなかった。

 

あまりにも僕がつまらなさそうにしているように見えたのか、お店の場所を変える時に、Fさんが気を利かせて、ともやが楽しめるところにしよう!と何度も何度も提案してくれた。彼女の優しさに強く胸を打たれながらも、彼女に気を遣わせてしまった自分を無性にダサく感じた。同時に申し訳ないと思った。それでも気を遣わせたくないからといって、無理をして気を遣っていたら、俺は自分をもっとダサく感じただろう。

もし今、あの瞬間に戻れるとしたら、何か変えることはできただろうか。「俺はもっと皆の内側をえぐるような話がしたい」と勇気を出して言えたならどうなっただろう。微妙な空気になって、せっかくの再会の場を台無しにしていたかもしれない。しかし、行動を起こせば何かしらの波動を生む。「この場をどうするか」という問いくらいは残せたかもしれない。少なくとも、私の感情は動かせたはずだ。こうして言葉を綴っている今も、私は自分をもっと誇れていたに違いない。

最近は、「何とかなるから、試しにやってみようぜ」みたいなノリを大切にしていた。実際になんとかなってきた。きっとこの場もなんとかなったと思う。自然の中に暮らしていると、人と会う機会が極端に無くなる。こうして人と会うことがどれだけ知恵を実らせてくれるか、東京に来て、そんなことを猛烈に感じている。

 

話を続きに戻す。2軒目は、友人の提案で、シーシャバーに行くことになった。Fさんの優しさを無下にしたくなかったので、私も楽しむ努力をしようと心に決めた。シーシャに対しての後ろ向きな先入観を取っ払って、少しでも感情が動きそうなシーシャバーに行きたいと言った。

シーシャとは別名、水たばこのことを言う。皿の上で燃やしたタバコの煙を専用の器具でろ過し、長いホースから煙を楽しむ。煙草との明確な違いは、柑橘系やバニラ系など、煙にフレーバーを感じられることだ。もちろん、タバコなので健康的なものではない。

店内は甘い匂いが充満していた。中にいる人は想像通り洒落た格好をしていて、好き好きに煙を宙に吐き出している。意外にも、居心地は良かった。天井からはロープでハンモックチェアが吊るされており、地べたで横になることもできる。民族柄っぽいお洒落なひざかけもあった。木目を生かした小洒落たカフェのようで、本棚には様々なジャンルの本が用意されている。あまりの居心地の良さに、本棚に手が伸びそうになる(実際伸びた)が、それよりも目の前の彼女たちと過ごす時間の方がずっと大事だろうと自分に喝を入れる。

 

シーシャは美味しくてたまらない!というほどではないが、ほのかに喉に残る柑橘の清涼感にこれまで味わったことのない心地よさをおぼえた。私は健康な状態が好きで、生まれて28年、煙草は吸っていない。酒は弱くて飲めない。日頃から玄米菜食中心で、運動も適度に行い、一日一食で過ごすことも多い。身体に入れるものは、基本的に添加物まですべて把握するように心がける。見る人によっては異常と捉えるだろうが、私からしてみれば、自分の身体に入れるものに無関心である社会がずっと異常だと思っている。

話を戻す。そんな健康を心がけている私だが、シーシャのような嗜好品を完全に否定するわけではない。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、そもそも嗜好品とは、栄養や健康だから取り入れるものではなく、楽しむために存在しているものだ。

私は一時期、身体に入れるものを追求した結果、白湯ばかり飲む生活を2週間ほど続けたことがある。確かに身体は健康になった。しかし、白湯ばかりの生活は正直つまらなかった。試しに白湯を珈琲に変えてみると、感動の連続だった。香りがある!色がある!味がある!深みがある!酸味もある!そして何より心からホッとできる!

感情が大きく動くのが分かった。嗜好品は感情を動かす。味気ない生活に面白味を与えてくれる。無色な人生に、彩を与えてくれる。私は健康な生活は好きだけれど、味気ない人生は嫌だと思った。言い換えれば、いつも感動していたい。

シーシャもそんな印象だった。普段当たり前に行う呼吸に、煙草の成分と柑橘の甘い香りがトッピングされる。それを洒落た店で、誰かとのんびり会話を楽しむのは、至福の時間だ。きっとシーシャを愛している人は、もっと深い魅力を感じているだろう。今日初めて体験した私の感想はこの程度だ。

 

そんな視点で、改めて街を見直すと、どこもかしこも嗜好品に満ち溢れているのが分かる。逆に嗜好品以外を見つけることのほうが難しい。これでは脳が麻痺をすると思った。というよりも、心身の調子を崩し食事を根本から見直す前の私は麻痺していた。

すべて嗜好品が、嗜好品ではなく当たり前になる感覚は、実は当たり前ではない。生活習慣病は年々増え続けている。ただこのトピックをあまり大声で言うと面倒くさくなりそうだから、この話はこれぐらいでやめておく。

私はいつも健康な状態でありたいし、嗜好品も最低限で良い。その代わり、ちっちゃなことでも、いちいち感動する大袈裟なやつでいたい。誰かと分かち合うたまの贅沢に、涙する人間でありたい。

 

気づいたら、段ボールの上で2時間ほど眠っていて、時刻は朝の4時をまわっていた。空も明るくなってきたので、このまま1日を始めることにしよう。そんな下北沢の朝。

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