「二十四の瞳」感想[288/1000]

木下惠介監督「二十四の瞳」を観た。瀬戸内海の淡路島に次いで2番目に大きい小豆島での、先生と12人の教え子の人生を描いた名作。

古き日本に流れる、胸をいっぱいにするこの温かい何かはいったい何なのだろうといつも憧れる。何に涙しているのか、自分でも分かっていない。この時代を生きていないはずの私も、なぜか懐かしさをおぼえるのは、10歳にも満たない頃の先生との記憶の中に同じものを感じているからだろうか。

 

立派な先生を持った人間は一生涯の仕合せを得る。

憐れみ深く、他人の痛みに涙を流せる人間が先生である。後の人生が悲しみと苦労に満ちていても、心の中では一生涯先生を持ちつづけ、苦労の現実を生きていく。例え不幸でも、心の中で先生を想い続けられるという一点では、この上ない仕合せなのだと思う。

 

私はかつて教員をしていたことを何度も書いているけれども、自分を先生と呼べたことも、教師とも呼べたことも一度もない。ほんの数ヵ月で辞めてしまった自分を、そう呼ぶに相応しくないことを知っていたし、かつて世話になった先生と同じ呼称で呼ぶなど、おこがましくて傲慢だった。

教師には、「教師聖職者論」「教師労働者論」というものがある。聖職者こそ教師と呼ぶに相応しく、労働者は教員以上のものではないと思う。教師はいつも天と繋がる存在で、子は教師を通じて天と繋がっていた。

 

神がいるからこその聖職であって、魂が失われ、世界が水平化の一途をたどる現代では、聖職者の堕落は避けられない。聖職者が堕落して、労働者になれば、親とも対等な人間である。親が学校に文句を言いたくなるのは、聖域が失われたからであろう。

魂が失われたことで、教師は人間に堕落し、文句を言うような親は傲慢にも神となった。魂の問題が忘れられて、垂直感度が失われれば、学校は行かなくてもいいとか、勉強は本やネットで十分だとか、物質的な観点でしか物事を見れなくなる。この世界線の上に待ち受けるのは、虚無しかないと私は思う。

 

魂の救済とは、虚無からの脱却である。

二十四の瞳を観て、”時代に流れる温かい何か”があるかぎり、虚無にはならないだろうと感じていた。私は虚無な世界ほど、生命を冒涜するものはないと感じている。魂を救済し、虚無の世界を貫いていく何かをもとめている。古き日本に涙を流せるかぎり、現代人にもその素養があるのだし、涙を流すということは、人間の美しさを忘れちゃならないという先人の祈りと繋がるからじゃないかな。

私は堕落している。恥にも地に堕ちてる。そんな私ですら、この高潔な魂に向かうことは許される。私はここに人間の本当の平等を見つけるし、大きな慈悲を感じる。生命の燃焼と、魂に生きることに関しては、みな平等なのだ。

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