苦しみに食われるか、苦しみを食らい尽くすか。[240/1000]

毒を食うか、毒に食われるかの人生だ。毒があることは大大大大大大大大前提である。野菜にだって毒が入っている。この大前提を履き違え、毒のない夢物語を渇望すれば、消毒という発想が生まれる。しかし、毒を本当に消せるものなら、今日世界から一切の苦しみは消え、平和になっているはずだろう。消毒の発想は、一切の苦しみが消え、楽になったらいい、という願望をにおわせる。願望を抱く気持ちもわかるが、私はリアリストでありたい。毒があることを前提に、毒を食うか、毒に食われるかの戦いの中に生きていると思うのだ。

 

だから、元気に生きたければ、毒を食うしかない。楽して元気になろうとすれば、消毒的発想になるが、ジリ貧ではないか。消毒的発想は、戦闘の意思を失った状態ともいえる。食うか食われるの世界において、戦うことを放棄すれば、一方的に食われるだけではないのか。今この瞬間も、食うか、食われるかのどちらかの状態にある。目の前にある苦しみは消毒できない。食らいつくして乗り越えることしかできない。

 

毒に食われない人間はいないと思うが、私自身も頻繁に食われる人間である。毒に食われるとき、朝起きるのが嫌になり、寒さに凍え、仕事から逃げたくなり、気が滅入り、内側に閉じこもりがちであることが分かった。当然この状態は、身体の免疫も低くなっていて、病気になりやすい状態であることは容易に想像できる。一方、毒を食っているときは、朝起きるのが愉快で、寒さも気にならず、仕事に前向きで、気が外側に放出していくのを感じる。すべてが極端な程、真逆である。

 

毒のある世界に生きる以上、苦しまない人はいないと思う。少なくとも、このブログが読まれるのも、今日の苦しみを乗り越えるためではないか。私自身も、しょっちゅう苦しんでいる。しかし、昨晩は、毒を食うことを思い出すと、この苦しみを全身でグッと受け止め、全身で食らいつくすことを想像し、5分ほど目を閉じて、静かに呼吸した。するとどうだ。生きることを放棄したくなっていたにも関わらず、仕事に精が出て、朝起きることも愉快になってしまったではないか。極端であるが、「食うか」「食われるか」のどちらかの状態に片付くわけだから、元気であるか、元気でないかのどちらかである。断じて、消毒的発想で、この苦しみを消したいなどと思っていれば、いつまでも苦しみに苛まれ、毒に身を滅ぼされていただろう。

今は毎朝、上裸となって乾布摩擦を行うが、上裸となった後はいつも毒を食った感覚がある。寒さも気にならなくなり、身体は芯から放熱し、明らかに免疫系も活性化していることを体感できる。毒を食う感覚はゾクゾクするほど生命としての生き心地がする。私は魂に生きることを、人生における第一の目標にしているが、現世の毒に食われているかぎり、そのような大業は成し得ないことを自覚している。

修身とは、身を修めること。身を修めるとは、毒に食われても、食らいつくすことだ。

 

苦しみを食らいつくしてゆけ!全身でグッと受け止め、食らいつくしてゆけ!

 

精神修養 #149 (2h/306h) #150 (2h/306h)

臆病風は、下着の内側に宿るなり。何気なく瞑想を始めるも、すぐに臆病風に吹かれていることを知り、上裸となり乾布摩擦を行う。身体と心は繋がっている。消極的な心も、やせ我慢でもいいから、素っ裸になって、寒さに立ち向かっていけばたちまち前を向く。臆病風に吹かれる間は、身も心も生きることを拒絶し死にたがっているではないか。さっさと上裸になって、早く死なせてやれ。

 

幸福も、感情も、気分も、結果論であり、目的ではない。自己中心性によって、主客転倒が起きる現代である。自分の幸せ、感情、気分が、第一の目的となれば、不幸に怯え、感情に怯え、気分に怯えてしまわないか。道徳よりも修身。自分の外に基準を置く。幸福も感情も気分も、行為によって偶然得られた結果に過ぎない。

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