魂に憑りつかれ、気づいたら死んでいたい。[369/1000]

さあ、仕事をやめるまであと一週間だ。来週の今日には、森に着手しはじめる。だらだらと家を建てるつもりはない。私がめざす家は、鴨長明の方丈庵のごとく、必要最低限の暮らしと、精神活動のためだけに考えられた、3メートル四方の小さな家である。土台はつかわない。柱はそのまま地面にうめる。あとは、てきとうに木をうちつけていく。べつに、貴族の御屋敷をつくろうってわけじゃない。人間1人が雨風しのげるくらいの簡素な小屋で構わない。私は大工でもなければ、建築の知識もあるわけではないが、住の哲学はある。精巧で丈夫な家はできないが、精神の研ぎ澄まされる空間にはなるはずだ。壊れたら建て直せばいい。冷たいすきま風もウェルカムだ。かえって頭はさえて本もよく読めるだろう。

 

私にはずっと、狂いたいという願望がある。狂うように働き、狂うように恋をし、狂うように本を読み、狂うように音楽に打ち込む。寝食などもうでもよく、眠りにおちてもそのことだけを考えつづける。坊さんが夜坐の瞑想の極みのなかで、意識が純粋に研ぎ澄まされた極地のなかで、束の間の眠りを獲得するようなものである。つねに精神が肉体を超越し、肉体が欲する安心や安全は退けるのだ。これこそが宇宙の力である。肉体は本気であるが、私は狂気がほしい。似たような経験を子供のときにしている。寒さを忘れるくらい川遊びに夢中になり、我に返ったときには身体が冷え切って風邪をひく。世界を知ろうとする好奇心が、肉体の苦痛を忘れさせて、そのツケがあとからドッとやってくる。鼻水をたらし頭痛に泣く我が子を見て、母親は優しくほほ笑むのだ。この究極こそ、”気づいたら死んでいる”という状態だ。それほど宇宙の力に狂えたら大したものだ。

 

社会に出て、色んなことに責任感がともなうようになると、迷惑をかけてはいけないと、あまり無茶はできなくなる。風邪をひいて仕事をやすめば、他の人間に負担がかかる。頭痛を抱えながら家事をこなすのはしんどい。だから過去の経験から自分がどこまでだったら死なないかということを”賢く”学んでいく。そうするうちに、生活は安定していくが、垂直方向の感度は弱くなり、肉体の限界に挑戦するような野性は失われていく。社会とはそういうものだ。良いか悪いかということではなく、秩序が必要なのだから仕方ない。”飼いならされる”とはよく言ったものだ。しかし、生命は秩序正しく生きるためにあるものではないと私は思う。たしかに道徳は立派なことではあるけれど、宇宙の一個体として自己を認識するとき、我々の根底には子供のように我を忘れて、狂いたいという願望が変わらずうずまいている。私はその叫びを解放したいと願う。気づいたら死んでいる。魂に憑りつかれよ。

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