言葉が行動を追い越したときの空虚感[181/1000]

陽が昇る前の朝は自分の呼吸に気づき、陽が世界を照らす日中は世界の呼吸を感じて、陽が沈めば再び自分の呼吸に帰ってくる。そうして常に呼吸と共にあるのが理想だろう。

「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」という西郷隆盛の言葉のように、天に仕えるとは太陽や自然の動きに倣い、自然の法に合わさることを意味するのだと思う。

そうは言っても、日中は必死になるほど呼吸を忘れてしまうし、呼吸を忘れれば自分は無法者となるので難しい。

 

人の言葉を読んでいると、体験に満ちていて面白いなと思う。

今は自分の体験を話すことも書き記すこともしなくなった。体験は、呼吸と共に、抽象化されやすく、真理を探究する材料としていつも昇華される。昇華が完了すれば、体験はもはや重要ではなく、人に語られぬまま心の奥にしまわれる。体験はいつも魂に近づくことを前提に存在した。真理を見つければ歓喜に浸り、肉体が興ずるだけのものであれば、その先に虚無を感じていた。そんなのだから俗に馴染めない。

 

抽象的な言葉を残す不安はここにある。いくら的を得た言葉に昇華されても、個性的な体験が心にしまわれてしまえば、世界には風船のようなフワフワとした言葉しか残らない。実態はあるように見えても、針で一刺しすれば、パンと破裂して何もなくなってしまう。そこに空虚さをおぼえている。

自分を出すことは、重要だろうか?自分を出した方が個性的で、おもしろいものは生まれる。しかし、葉隠のように自分を死なせようなら、自分を出すことは道を逆走しているようにも感じる。

 

自分のコップを水で満たし、溢れた分だけ人に注げて愛となる、という考えは広くに受け入れられているが、自分を勘定に入れず、最初から人に水を注ぐという選択肢もあるように思う。もしパンが1つしかなく、半分に分けることもできないなら、母はまず子に食べさせるだろう。自己犠牲を伴うものの純度が高いなら、法に近づくほど自分はなくなる。

 

結局、疑問に思っていたことは、行動できているかの一点だった。毎日言葉を書き記している私は、言葉が行動を追い越しやすい。言葉が行動を引き離すほど、その差分に中身のない空虚感をおぼえる。1000日投稿は、言葉に追い越されないように、行動しろという戒めでもある。もっと死に向かえという戒めである。年内はひたすら、孤独と寒さの中に死んでいきたい。

気づけば最後の晩餐となるクリスマスまであと1週間。雪も積もり、世界は真っ白に染まっているが、雪上に真っ赤な血を垂らすつもりで、最後まで歩こう。

 

精神修養 #91 (2h/190h)

平常、1時間のタイマーが鳴っても、呼吸を失った状態であれば、すぐに瞑想を止めることはなく呼吸を取り戻すまでは続ける。今日もまた意識の濁流は激しく、しばらく経っても呼吸を取り戻すのが困難だった。

濁流に流されるときは、思考する快楽に執着していて、いかにも働き者のようで陶酔状態になるが、これで以前破滅したことは忘れない。

 

呼吸にも力がある。自分の微弱な呼吸では濁流に対処しきれないことが多々あるが、過去の偉人の呼吸を借りると、簡単に濁流から逃れられる。それは偉人が朝夕に限らず常に呼吸と共にあり、呼吸に力があったからだ。時代を経ても、その強さを感じるほどに。

 

[夕の瞑想]

自然の法の下に生きている。自然の法が最上位にあり、その下位に、法に生きた人間がいて、その下位に、法に生きた人間を師と仰ぐものがいる。

街に暮らしていれば、自然の脅威を感じることは少ないが、地震や津波や嵐が来れば、人の力ではどうしようもないように、忘れてしまうだけで、自然の法は常に上位にあるように思う。

オーストラリアの山奥で一人で寝たときは特にそれを感じた。宇宙の呼吸に包まれる感覚があった。

 

自分を死なせるとは自我や個性を失うことではない。自我はなくならない。自分を死なせるとは、自然の法を体内に流入させ法を身として生きること。ただ肉体の制約を受ける以上、同じ法を宿しても個性が生まれる。個性によって愛に強く生きられる者もいれば、義に強く生きる者もいるのだと思う。

一概に人と比較などできない。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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