満たねば困窮、満ちれば退屈。[555/1000]

満たねば困窮、満ちれば退屈。

これは、ショーペンハウアーが提示する、救われようのない人間の性である。海からやってくるさざ波のようなものだ。海浜に満つさざ波は、次の瞬間には、海へと引き返し、一瞬たりとも満ちたりた状態でとまってくれることはない。

 

われわれは、幸福の幻想を追いかける。追いついた先にある幸福は、そこで消滅し、われわれは幻滅する。なぜなら、幸福にあるべきはずの場所に、退屈があるからだ。これは、オーストラリアを西から東まで太陽を追いかけてヒッチハイクで横断した私が、体験から言えることである。

東のゴールドコーストに朝日は確かに美しかった。だが、同時に、私は己の内が静かな絶望に支配されていくのを感じたのだ。

 

以上の人間の性を考えると、われわれが日常に使う「幸福」とは、過去完了の現象を指していうものだろうか。はたまた、「立派な仕事」「平和な家庭」のように、豊かな外観に対して象徴的に言われるものだろうか。

私自身、家なし子だった頃は、公園によく寝泊まりした。翌朝、ご老人たちが爽やかな空気のなか、ラジオ体操をしたり、球を突いて遊んでいるのだけれど、彼らのように労苦から解放された人間を「幸福」というのだろうか。

 

ええ、彼らを支配するのは「退屈」であるように思われる。長年、老後の幸福のために、「困窮」の原理に生きるわれわれが、最後に手にするのは、大きな「退屈」、退屈に対する「幻滅」だとは、誰も口が裂けてもいえるはずがない。

 

隠遁生活は、退屈ではないのかと思われる読者もいるかもしれないが、退屈を感じたことはまず無かった。書物を読むか、物を書くか、薪を割り、森を散歩したりしていれば、一日はあっという間に過ぎていく。詩作に没頭していた5日間などは、本当に一瞬のうちに過ぎ去った。

また「退屈」は、連日取り上げている「感情の力」と関係がある。感情の力が不足したときに、古典的な享楽である書物の要求に応えることができない、ある主の「無力」な状態に堕ちるとき、われわれは退屈する。退屈、倦怠とは、無力化した感情の上に鎮座するものだ。私の場合でいえば、一生かけても読み切ることのできない書物の山が目の前に屹立しているのに、やることが尽きることはあり得ないからである。やるべきことがあるのに退屈するとは、なんと自己矛盾だろう。感情の力が不足し、書物を読むこともできなくなると、退屈はやってくるのだ。

 

感情の力の奮起についても、散々述べてきていることである。こうして、今私自身物を書いているのも、コーヒーを飲むとか、晩酌をするとか、感情を奮起するための、古典的方法のひとつである。

 

われわれ人間の性質上、困窮と退屈のどちらかの状態しかないとしても、退屈しているほうが罪が重いように思われる。なぜなら、感情の要求に応えられない、無力感の上に生じる退屈は、生命的屈辱であることに加え、「人間は神の感覚器官である」という哲学の下においては、神の冒涜になるからだ。

ただし、無力感によって生じた退屈をごまかすための困窮、いわゆる気晴らしというものもまた、無力から出発して、無力へ帰っていき、時には脳髄を衰弱させてしまうものだとしたら、これもまた質の悪いものだ。

同じ気晴らしにしても、純素朴な方法、もしくは古典的な方法が推奨されるのは、感情に力を与えるからである。散歩よし、歩けばとりあえず、感情は奮起する。書くもよし。思考がまとまれば、感情の渋滞は解消される。コーヒーよし、これも文化的だ。私は最近、コーヒーをコーヒーのままゆっくり味わうことを愉しむ。素朴なコーヒーを愉しむには、感情の全勢力を動員する。そうして感情を奮起させる。

退屈が、無力の上に生ずる屈辱であるのに対し、困窮は感情の総力をもって挑む戦いだ。決して終わりのない困窮だとしても、栄誉ある困窮を愛したいと思うのだ。

 

2023.12.27

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