人間を創造した神に対する義務[554/1000]

労働は国民の国家に対する義務である。これは間違いない。そして、古典的習慣によって脳髄の力を強化し、感情の力をもって人生にぶつかり味わい尽くすことは、己の肉体を生んだ親に対する義務、また人間という存在を創造した神に対する義務である。

 

労働、たしかにこれは、国家に対する義務だ。だが、愛国心なき労働を義務だというのなら、これは結局エゴイズムと同義ではあるまいか?私もまた、エゴイズムに堕した人間である。私にこんなことを言う資格はないかもしれないが、義務とは、「義」の「務め」であって、愛国心があってはじめて生きるものであるように思われるのだ。

少なくとも、今の日本を眺めてみれば、そこに愛国心があるとは思われないし、自分の生活を守るためだけの労働と堕すれば、やはりこれを義務だと言うには、なんだか違うような気もする。

 

今の私には、己の脳髄と知性と感情の力を、物質文明の悪癖によって安易に摩耗させないことのほうが、よっぽど義務的に思われるのはどうしてだろう。古典にふれること、古典を通じて、人間の文化を己のうちに宿すこと、そして、感情を働かせて獲得した文化を脳髄の摩耗によって、己の内から失わせないこと、己の内に守ること。こうしたことの方が、よっぽど「義」の「務め」であるように思われるのだ。

 

神から課された人間の義務というと、スケールが国を超えているように思われるが、こうした神との義務の間に、国の文化も眠っている。武士道なんかは、分かりやすい例であろう。己と神との間における義務でありながら、日本の精神性を貫いている。もともと、国家は己と神との間にあるものであったはずだ。国家がそれを忘れているのなら、国家に対する国民の義務よりも、神に対する人間の義務を重んずるほうが、仮にそれが「不道徳」であっても、「道徳的」であるように思われる。少なくとも、そこに、魂も心も、人間の尊厳もあるのだから。

 

私自身、今は金がないので、どのみち働かねばならん。それも、恐らく私は、自分が食っていくためのエゴイズムの原理で働くことになろう。しかし、三島由紀夫が「若きサムライのために」で言うように、己を守ることが文化を守ることなのである。私自身、己はまだ守に値するものとは、そんな自惚れたことを口にはできないが、それでも生活の回転のなかで魂を死なせてしまうことが起こりうるのなら、仕事もろくにできない野良犬になろうとも、やはり人間的であるように思われるのだ。

 

2023.12.26

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