甘いものを食わぬことにした。厳密には、巷で四毒と言われるような、小麦、植物油、乳製品を金輪際食わぬと決めた。それから数日、軽い頭痛とこれまでにない体臭が生じた。身体から毒が抜け始めた兆候とみる。体臭が生じたのには自分でも驚いた。週に一度しか風呂に入らぬような森の暮らしをしながら、全く臭いが気にならなかったのは食を含め慣習がいいからだと自惚れていたからである。体臭は一日で消えたが、臭いは服や布団に染みついた。それほど、毒が蓄積していたのである。身体は銭湯で流し、布団は太陽に干し、ようやくすっきりしたところである。
心に一点の曇りもない、爽快な日がつづく。夜明け、白銀の森を散歩しながら沢へ洗い物に出かける。道中、獣たちが踏みしめた足跡に遭遇しては、群れからはぐれた鹿なのか、雪の下に餌をもとめるイタチなのか想像しては愉しんだ。雪の合間を美しく流れる川は冷たいが、雪景色を愉しめるくらい、洗い物の仕事は落ち着いていた。小屋に帰れば、暖炉で温くなった部屋に迎えられる。幸せだなあと、そんな森の生活に心から至福を感じられるのも、食を正した恩恵である。
住環境が心に及ぼす影響は大きいかもしれない。だが、私に関して言えば、森で暮らしていても甘いものを食っていた時分は、不安感や焦燥感に駆られてばかりいた。森に家をつくっていたときは、愉しむ余裕は一切なく、長丁場の不安のために心は疲弊しきっていた。ようやく家ができたとしても、金のない先々の生活を案じては、悲しんだり、怖れたりしてばかりいた。前向きに心を正そうとするも、こうした感情は無限に湧いてくるのであった。
どんな気高い志を抱こうが、食い物を改めることの方が、ずっと人間の心を高めるのだと、強い信念を持って言おう。心が穏やかになれば部屋は自ずと綺麗になる。役に立たぬ慣習は減っていき、勉学や仕事など前向きなことに励めるようになる。思い出せば、それこそが、精神修養の願った姿ではなかったか。瞑想をしている間は心が落ち着いても、終わった途端、怠惰な暮らしに戻るのであれば、一体何のための瞑想だったか。甘いものを食わなくなれば、第一にあれが食べたい、これが食べたいなどという、欲望から離れていく。憂うこともなくなり、心は理想に殉ずることができる。
「積極一貫であれ」という天風先生の言葉を、ようやく堂々と受け取れるのである。怒らず恐れず悲しまず、正直親切愉快に、力と勇気と信念とを持って、自己の人生に対する責務を果たし、恒に平和と愛とを失わざる、立派な人間として生きることに邁進できるのである。俗物を食わぬことの痛みなど、無に等しく感じられるほど、喜悦に満ち満ちるのである。
2025.3.9