花を通して寂しさを共有する[352/1000]

もし、他者の人間の孤独が感じられたら、我々は孤独に悩まされることはない。そんなことができるのかと疑うだろうが、私はその画期的な方法を見つけた。

まず町を散歩する。気の赴くまま自由に歩いたらいい。もし迷うようなら、行ったことのない初めて通る道がいい。わくわくしながら道を進むと、そこには「あれ、私の町にこんなところあったんだ」と驚く世界が広がっている。そしてあなたは気づく。何気なく歩道の脇に植えられた、お花の存在に。玄関や庭先に大切に植えられる花の存在が少なくないことに。

人間の花を飾る気遣いは、寂しさのそれと同じだと私は思う。つまり、町に何気なく咲いている花を見たら、そこには自分と同じように、寂しさを抱える人間が存在するということだ。花をとおして、私たちは孤独を共感できる。そして、もし花に慰められたら、今度は自分が他者の見えるところに花を植えることだ。その花に救われる人はきっといる。

 

いつの日か、不安定な状態で旅をしていたとき、3日間誰にも会わず過ごしたことがあった。あれは、ちょうど今頃の梅雨だった。福井県の人気のない公園で、ざーざーと降る雨音に包まれて、孤独の緊張は極限まで高まっていた。そんなとき、友人が私が車中泊していた公園まで遊びにきて、焼肉をごちそうしてくれた。長い孤独の緊張が打ち破られた瞬間の喜びは爆発するようだった。実際ああいう時、体内では爆発に近い現象が起きていると思う。出会う瞬間、歓喜のあまり、思わずハグをしてしまうことがある。あれは、緊張も不安も怯えもすべてを吹き飛ばして、感情が爆発したのである。

爆発のある出会いこそ、いい出会いだと思う。爆発のない出会いには、生命の歓びはない。そして、爆発を起こすのはいつも孤独である。孤独の苦しみを味わうほど出会いの歓びは大きい。孤独はそのために存在する。

 

今の私は、3日どころか、人間に会わないことがすっかり慢性化してしまった。もうかれこれ半年以上、爆発的な出会いをしていない。去年の冬はほぼ誰にも会わなかった。「寂しいから会いに行くなんてダサいだろう」とひたすら強がり、本を読むことで耐え抜いた。

苦しかったが、これはいい面もあった。いい読書は、孤独の中でしか行えないことを知った。一人寂しくて、苦しくて、死にそうなときほど、著者の深い魂とぶつかることができる。人に会わない代わりに人類の魂にぶつかることで、精神世界は広がった。

孤独は自分から立ち向かっていけば、飲まれることなく、自己の内に取り込める。寂しさをごまかすような娯楽はほどほどにして、とりあえず本を開いてみることだ。強がりでいいと思う。こんな孤独、どうってことないと強がることで、本にぶつかれば心の向きを前を向く。

 

花で溢れる世界になるといいな。

孤独に本を読むのもいいが、やっぱり人に会いたいぜ。現世を生きる我々は、地上に遣わされた使命は、肉体によって果たさねばならない。汗も血を流しながら、精神を宿した肉体で生きたい。

不必要に言葉は遠慮して、話すべきときに吟味した言葉だけを話し、波に揺れ、木漏れ日を愉しみ、風に笑い、雨にしっとりし、同じ花や月を眺める。そんな出会いに、いつまでも憧れる。

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