魂をそこなうよりは、肉体を十ぺん滅ぼすことだ。[471/1000]

世間体を気にする親を疎ましがったことのある人間は少なくない。しかし、人様に恥ずかしくない生き方をするために己の襟を正したのが、名誉を重んじた日本人のやり方であった。魂が浮薄し、精神を失った今日では、世間体は沈殿した道徳のようなものであり、狡猾に自尊心を保持するためのものとなった。恥の意識が社会から失われれば、それはもう恥ではないが、皆が破廉恥になりさがるのを、天はどんな気持ちで見下ろしているのだろう。

 

それが恥であると知りながら、道徳を犯さずにはいられない人間はダメで、人間のクズである。クズも恥を失えば「生きているだけで素晴らしい人」となれるのが今日に適用される特別ルールであるが、恥を失ってまでこの人生で掴みたいものとは、いったいどれほどの値打ちがあるのか。私にはその候補にあがるすべてが虚無のなかに抜け落ちていくまやかしにしか感じられず、真に、人生を生きるに相当する”重み”のあるものを見出せないのである。人生から重みが失われれば、楽に生きることはできるが、自分でも気づかぬまま、生きていること自体に絶望することになる。生きることの意味も価値も私にはまだわからないが、せっかく人間として生まれたのなら、せめて人間としてありたいと願っている。真に価値あるものは、魂に重力を与え、恥の意識のなかに凝縮し、いつか天に向かって放射せんとするものだと思う。

 

【書物の海 #2】 車輪の下 (新潮文庫) 文庫 – ヘルマン ヘッセ (著), Hermann Hesse (原名), 高橋 健二 (翻訳)

「そりゃ結構だ。だが、これだけはいっておくぜ。魂をそこなうよりは、肉体を十ぺん滅ぼすことだ。おまえはいまに牧師になるつもりでいるが、そりゃとうとい重い役目だ。そのためには、おまえたちのような若い有象無象とは違った人間が必要なんだ。たぶんおまえはまちがいない人間で、いつか魂の救い手、教えびとになるだろう。わしはそれを心から願い、そのために祈ってやろう。」

“魂をそこなうよりは、肉体を十ぺん滅ぼすこと。”
今日、こんな言葉を言ってくれる人間は、稀である。もしくは、そう言いたいくも、言いにくい時代になっている。先にも書いたように、生きているだけで素晴らしい今日には、甘言のほうがウケて銭も儲かるし、魂のために肉体を滅ぼす価値をとけば、頭のおかしい人間と思われるか、危険思想のレッテルを貼られ、避けられるがおちである。

しかし、甘言に卑猥さを感じる人間は、甘言の安らぎでは魂の渇きを潤せないことを知っているし、その渇きを見逃さない精神が、真実を探求するきっかけとなる。文学に甘言はなく、肉体にとって厳しい言葉ばかりであるが、魂の言葉だけが魂の渇きを潤すのである。

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