武士道が失われたこの時代にどうして生まれたのだろう。[157/1000]

幸せだけに満ちようとする世界におぼえていた息苦しさは、「自分」が自己の中心となった世界の息苦しさだった。

息苦しいと感じている私も例外ではなく、自分が自己の中心にある一人だろう。そうでなければ、息苦しいなんて感覚すら、もはや問題ではないはずなのだ。

 

自己中心的な人間は非難されるが、それは自己中心性が問題とされるというより、協調性がないことを非難されているに過ぎない。神も武士道も失った現代では自己中心的な人間以外と出会うことのほうが稀有であり、自己中心的な人間を非難するこの非難もまた、自己中心性から生まれている。

他人と折り合いをつけていても、それは自己中心的な人間ではないことの証明にはならず、神となった自分が傷つかないために、相手を理解しようと努め、言葉を選び、尊厳を傷つけないようにする能力が優れているに過ぎない。これを人は社会性と呼ぶ。社会性によって自己中心の傲慢さを包み隠している。

 

世界に「自分」が濫立するのを感じている。バイアスはかかっていると思う。ネットもメディアも本も、自分を中心としない人間は露出されにくい。本当に徳のある人間は、世界の目に触れられないところで、天を敬いながら、ひっそりと質素な暮らしている気がする。

旅を思い出す。親切な人間に沢山出会った。露出された限られた世界が世界のすべてになると、気が狂いそうになるのはそういうことだろう。

 

 

物質主義は「自分」を膨らますことを是とする。その方がお金になる。

なぜキリストやブッタは贅沢を避けたか。なぜ武士は質素な生活を好んだか。それは、美食や豪華な住まい、華美な服装が、自分を大きくするものだったからではないのか。自分が大きくなれば、自分が大切になり、自分よりも大切なもののために生きられなくなる。

かつて天皇や主君に命を奉げた武士は、ここに弱さを見つけていたように思う。自分の命が恋しくなって逃げだすようなことが万が一あれば恥だ。名誉を重んじる気高き存在にはそれは到底赦しがたいことだった。ゆえに自分に厳格な規律を課し、自分を限りなく小さくした。葉隠はこれを「死身」という言葉で表している。

 

なぜこの時代に生まれたかをひたすら問うている。武士道の魂と出会ってしまったことにも運命を感じざるを得ない。

神は失われ、身体が自由になったこの時代に、祖先の名前も知らないほど義理のない人間として生きていた。時代を超えて魂の軌跡をこの身で感じている。我々は時によって切り離された存在ではなく、連続性の上に生きている。

これを自覚することに、宿命と運命を感じている。

 

精神修養 #67 (2h/142h)

この身体もこの命も、”自分のもの”ではないとすれば、命を奉げられる主君のない今の人間にとっては虚無主義に傾いていきそうな気がする。

しかし、愛に近づくような気もしている。自分と他人を隔てる壁が1枚なくなるから。

瞑想も「自分を観察する」から「自分のものではない自分を観察する」に変わりそうな感覚をおぼえる。この違いは大きい。

 

[夕の瞑想]

日本の大陸から武士道の魂が消えてしまったことを肌で感じている。自己の中心に存在した神が消え、自分を新たな神とした。時代の波に飲まれたこともあっただろう。主を失った人間は、自分が中心に生きるしかないのだろうか。

しかし、日本人の真面目さ、勤勉さ、礼儀、親切さは武士道魂の片鱗であるようにも思う。武士道魂の大部分は失われながらも、最後の涙として、今日の日本人の気質にあらわれているような気がする。

時代を超えて魂の軌跡をこの身で感じている。なぜ私がこの時代に日本人として生まれたのか。

ぽっかりと空いた自己の中心をただ見つめている。この空洞の中心に何を据えればいい。何のために生きればいい。

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