自分の命は誰のものか。人生の主導権を天に還すということ[158/1000]

「スブーティよ、どう思うか。永遠の平安の流れに乗った者が、<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ>というような考えをおこすだろうか。」(中略)

「師よ、そういうことはありません。永遠の平安への流れに乗った者が<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ>というような考えをおこすはずはありません。それはなぜかというと、師よ、実に、彼はなにものも得ているわけではないからです。それだからこそ、永遠の平安への流れに乗った者と言われるのです。(中略)

もしも、永遠の平安への流れに乗った者が、<わたしは、永遠の平安への流れに乗った者という成果に達しているのだ>というような考えをおこしたとすると、かれには、かの自我に対する執着があることになるし、生きているものに対する執着、個体に対する執着、個人に対する執着があるということになりましょう。」

中村元・紀野一義訳注,「般若心経 金剛般若経」, 岩波文庫

 

本当に徳のある人間は、天を敬いながら、ひっそりと質素な暮らしていると思うのは、自らを徳のある人間だと、自覚されることすらないからだろう。

徳に生きる道は「徳に生きないこと」に繋がるが、自分にこだわればこだわるほど、ここが盲点となる。肥大化した自己はいつも自分を中心に世界を見据えることしかできない。

 

息苦しさから逃れることが第一の問題になるのではない。

苦しみから解放されたいという悩みは人間誰しもが持つものだと思うが、この時代に生きる私は、この命の道筋を、消極的な理由で定めたくないと感じている。これは時代や、生まれた国、既に動かなくなった宿命から発せられた言葉だと自覚している。

飢餓にあうことも、迫害されることも、身体が拘束されることもないこの時代の日本に生まれたからこそ惹かれる生き方がある。それは生い立ちによって人それぞれのものなのだろう。1つ言えることは、宿命を認めることがなければ生き方も定まらないということだろうか。

 

自分を滅し、法に生きることを、時代を超えて偉大な教えが語る。その中でも、武士道がひときわ輝いて見えるのは、日本人の感性によるものかもしれない。主を失ったこの日本で武士道に生きることは体制から見ても困難であるが、あの気高さや鋭い眼光に宿る力強さにどうしても惹かれてしまう。

 

かたちによって、わたしを見、

声によって、わたしを求めるものは、

まちがった努力にふけるもの、

かの人たちは、わたしを見ないのだ。

目ざめた人々は、法によって見られるべきだ。

もろもろの師たちは、法を身とするものだから。

そして法の本質は、知られない。

知ろうとしても、知られない。

中村元・紀野一義訳注,「般若心経 金剛般若経」, 岩波文庫

 

何かを信じるとは、対象の魂と一体になるということ。自分として生きながら、同時にキリストとして、釈迦として、武士道として生きること。その純粋な一点をめざす人間は、求道者とよばれる。

「金剛般若経」は、自己を対象の魂と一体化することを「法を身とする」という言葉で表現したのだと思う。私が私を裁くのではない。私は私を見ず、法が私を見る。私が法になるのではなく、法が私になる。人生の主導権が天に還る。

そう思うと、大きくなった自分は猛烈に拒絶する。これもまた時代の宿命だと感じている。

 

子供の頃に唄っていた民謡を思い出した。近所の友達と遊んだとき「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり。」とよく唄っていた。

かつてはやはり、天の存在はいまよりも身近だったのだろうか。

 

自由に好き勝手生きることもできる。自由に好き勝手生きて何が悪い。そうやって私自身生きてきた。

しかし武士道に恋焦がれるならば、中心に居座る自分という存在が常に足枷になることを肝に銘じなければならない。

 

「人生の主導権が天に還る」といったが、もともと自分の命は、自分のものではなかったと私は感じている。

では誰のものかというと、今の私はその答えを見つけていない。しかしこの問いの一点から、間違いなく生は定まっていく。なぜならそのもののために命を使い果たすことが、人間という存在だから。

純粋な一点を目指して[149/1000]

 

精神修養 #68 (2h/144h)

死と常に向き合う武士にとって、心を落ち着けるために座禅が受け入れられたという話を聞いたことがある。「心を落ち着ける」とはどういう状態を指すのだろう?瞑想を”自分のため”に行わず”天のため”に行えば、苦痛は苦痛ではなくなる。かつて主君や天皇に恋焦がれた武士たちも同じ気持ちだったのだろうか。

武士道において、瞑想は忍び恋そのものだったのだろうか。ひたすら祈るように、恋焦がれていたのだろうか。

 

魂がひたすら彷徨する。時代の魂と共鳴するものの、どこに行けばいいのか分からない。この身に宿り28年の時が過ぎた。恋焦がれるものがなければ、武士道の魂は存在しえないと感じている。人を斬る武士も、天を敬うことがなければただの人殺しとなるように。

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