命の根底に流れるものは勇気かそれとも恐れか。[223/1000]

 

小津安二郎監督の「東京物語」を数日前に観て、心に温かいものが残り続けている。

尾道に暮らす老夫婦は、東京にいる子供たちを訪ねに行く。しかし、長男や長女は生活に追われて上京してきた両親に構う暇もなく、寂しい思いをさせる。そんな中、戦死した次男の妻だけが、取り残された彼らに温かい心遣いを見せるのだった。

 

老夫婦が畳に座ったまま、特に何をすることもなく、静かに団扇を仰いでいるシーンが好きだった。本当に何もしないので、退屈じゃなかろうかと思ってしまう。しかし、映画を観続けていくと、これが束の間の時間の過ごし方ではなく、生活の根底を流れている魂そのものだと分かる。時間の隙間を埋めることも、命が垂れ流されることに抵抗することもなく、潔く時間の運命を受け入れ、じっと生きている様に、静かな勇気を感じていた。

 

我々の生活の根底には、いつも何かが流れている。この根底を魂が流れるとき、肉体的には孤独でも一人ではなくなる。時代に感じる温かさの正体は、人々の根底に流れる文化である。文化を通して個は繋がって、そこに家族のような温かさが生まれるのだと思う。

上杉謙信が長年の敵である、武田信玄に塩を送った話は有名である。塩の供給が絶たれ苦難に陥っていた武田信玄に対して、上杉謙信は「我々の争いは、武力の争いであって、塩の争いではない」と手紙を書いて塩を送った。魂が失われ、肉体がすべてとなれば、この美談はあり得ない。肉体においては敵であるが、魂においては友であった。2人の間には同じものが流れていた。恐れではなく、勇気が流れていた。

 

隙間が生じたときに、ふと生じるものが、我々の根底に流れているものだと思う。表層の流れが止まると、根底の流れが、実生活に浮上する。隙間時間に、消極的な行動をとりがちなら、恐れが流れている。隙間時間に積極的な行動がとれるなら、勇気が流れている。

 

東京物語を観た日の晩、急にスマホから離れたくなって、電源を切って手の届かないところにしまった。それから昨日と今日、スマホとは無縁の生活している。なんというか世界がとても静かになった。世界が静かになると、静かだと思っていた世界が、実はうるさかったことに気づいた。当たり前になりすぎて気が付かなかったが、煩いものが、根底の流れを覆い尽くしていたことを知った。

手持ち無沙汰になると、ついスマホを触ってしまうのは、恐れをベースにした消極的行動だということは、自分でもうすうす気づいていた。また消極行動によって恐れを増長させることも体験していた。

静かな流れから生じる隙間時間の実行動は、何をすることもなく、静かに座って、外の景色をじっと眺めているというものだった。ここに静かな勇気を感じていた。そして、ああなんて心地よく、いい時間なんだろうと心から思えていた。これが人間誰しもが持つ、本心なのだろう。

 

精神修養 #133 (2h/274h)

・本能心と理性心は肉体のものであるゆえ、自分のために思い、自分のために考える。

・霊性心は魂のものであるゆえ、そこには自分というものはないように思う。

・本能心と理性心に乗っ取られれば、霊性心の出る幕はないが、霊性心を中心に生きられたら、本能心や理性心も道具としてうまく使うことが出来るのではないか。

・本心にもとる行いをすれば、霊性心が表に出てくることはない。なぜならば、本心とは霊性心のことだからだ。

・本心にもとる行いを見て見ぬふりをしようとも、心を騙すことはできない。どう頑張っても、心はうすうすと過ちを感じる。

・本心にもとる行いをしたときに、本能心や理性心が煩くなる。本心にもとる行いとは、霊性心を本能心と理性心が覆いかぶさる形で生まれるものじゃないかな。

 

 

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