ひとりぼっちじゃないんだよ。大きなものと繋がっているんだよ。②[222/1000]

今日も元気ですかい?こちらは空が気持ちよく晴れまして、とても愉快な気分です。寒さに凍ってしまいそうだった心も、太陽が温かく溶かしてくれそうです。太陽が温かに世界を照らすように、今日一日も心陽気に朗らかに生きたいものです。

 

生きることを問えば、人間に生まれた意味を問う。人間に生まれた意味を問えば、そもそも人間とは何かを問う。そもそも人間とは何かを問えば、魂について問う。魂について問えば、宇宙エネルギーを問う。宇宙エネルギーを問えば、その美しさを知る。美しさを知れば、美しさが何千年もの月日を経て具現化されたものが文化だと知る。生まれたこの日本の文化を知れば、武士道をはじめとした高貴さと清貧な生き方に感動する。

 

崇高な魂の結晶体が文化である。国や民族の個性である。文化に生きた昔の人間の魂を知れば、同じ日本人であることを誇りに思える。西郷隆盛や乃木希典のように時代を超えても名が語り継がれる日本人の魂は純粋であった。こんな美しい国はないと思えるなら、やっぱり日本人の血が流れている。何千年の時を経て、築き上げられたこの文化を礎に、時代を生きる人間がいた。そうして生を終えると、土に還るという言葉のとおり、礎の一部となって次の世代に魂は継承されていく。

 

今日を生きる人間は文化を礎に立っている、はずであった。時代の波であろう。戦後の教育、物質主義、肉体至上主義が追い風となって、魂が失われ世界が垂直的になっていくほどに、人々の足は文化の礎から離れていった。昨日も書いたように、矢は弓と一体でなければ、ひとりぼっちである。遠くに飛ぶことだってできない。

弓から独立した矢が、ひとりぼっちで寂しいと言っていたら、本当はひとりじゃないんだよと声をかけてやるはずである。本当はひとりぼっちではない。弓と矢は一体にあるように、今日を生きる我々人間も、かつての偉大な日本人の魂の礎の上に命があるのである。

 

矢が弓から独立し、自由になったと喜んでいたら、愚かだと思うはずである。本当の自由は、弓と一体となり、遠くまで、どこまでもどこまでも飛んでいくことにあるのではないか。それと同じである。我々人間も、魂の結晶である文化を失えば、弓を失った矢となる。宿命を認識しなければ、なぜ人間として、日本人として、この世に生まれたのかを自覚しないまま、なんとなく充実しているからいいと感じながらも、何かが足りていないようなもどかしさを感じることになるのではないか。

 

大袈裟かもしれないが、今日生きる人間は、広大な文化の大地を感じられる最後の人間のように思う。世界は水平的となって魂は失われつつある。戦前に生きた人間は次々とこの世を去って、魂を知る人間もますますいなくなる。文化と切り離された戦後の教育は、綺麗で正しいかもしれないけれど先人の知恵が詰まったような血の通った温かさはないように思う。

軍国主義であるとか、暗記の詰込み型であるとか、戦前の教育は揶揄される。私自身も教員時代には古風を馬鹿にしたような革新的な方式を授業に取り込もうとしていた。振り返ってみると、能力に関していえば間違っていなかったかもしれない。しかし能力を育てること以上に、文化のある教育は、お前は誰か、なぜ人間として生きるのか、なぜこの時代に生きるのか、なぜ日本人として生きるのかの核心を教えるものだったんじゃないかな。先人の大きな魂と繋がって生きることを知れるから、ひとりぼっちじゃなくて、温かかったんじゃないかな。

 

精神修養 #132 (2h/272h)

・池に石を投げ入れれば波紋が生じるように、外の世界に接触することは、絶えず心に波紋を生む。

・日々の練習のうちに煉精化気が少しずつ身になっているからか、瞑想を始める段階で雑念が多くとも最後にはとても静かになる。

・天風先生がいうように、言葉が消極的であるか積極的であるかということも、気の流れを左右する大きな要因なんだろう。

 

[夕の瞑想]

こらこら。心を怖がらせるんじゃない、悲しませるんじゃない、とあれほど言っているのに。

本心にもとる行いをすれば、心は知らぬところで、悲しませることになる。本能心と理性心を満たすことが生活のすべてになれば、現世的なつまらない比較に心を悲しませることになる。魂とともにあれる時間を少しずつ増やすこと。霊性心をもって天と共にあること。とにかく本心にもとる行いをさせちゃだめだ。

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