困難に立ち向かう勇気と全てを包む大きな愛を受け取って。[195/1000]

明けましておめでとう。

原付を5分ほど走らせ、山へ行き、お天道様を拝むことにした。朝5時半。山頂には、初日の出を見ようと既に人が何人かいた。隅の方の地べたに腰を下ろし、魔法瓶に入れてきた白湯をちょびちょび飲みながら、日の出の瞬間を待っている。1時間経つ頃には、展望台は30人近い人で埋め尽くされた。元旦に山頂で静かに過ごそうなど甘い考えであった。静謐さは失われたが、こうして隣人と賑やかに日の出を拝むのも悪くないと思うように努めた。

 

朝焼けも美しいが、やはり太陽が顔を出す瞬間は最高である。どんな高級な宝石の輝きも、太陽の輝きには到底及ばない。何せ肉眼で見るには眩しすぎるほどの輝きだ。拝める時間は限られているが、だからこそ我々の祈りはわずかな時間に凝縮される。

 

お天道様に神を見た。

太陽が顔を出すと、大勢のシャッター音が鳴り響くが、お天道様はそんなことは気にも留めない様子で大きな輝きを美しく放ちつづけた。輝きは扇状にどんどん膨らんでいく。束の間、お天道様と二人きりになった。恍惚体験であった。大きな光に包まれ、すべての音は消え、心に一滴の涙が静かに落ちていくのを感じていた。涙は祈りであった。希望であり、勇気であり、困難に立ち向かう力強さと、すべてを包み込む温かな愛であった。自然の法をお天道様に感じた瞬間であった。

 

「私のおじいちゃんは、毎朝、東の空に向かって、こうやってお天道様に手を合わせていたんだよ」と真後ろに立つ女性の一人が話した。不可抗力で聞いてしまったが、すごくいい話だと思った。そのおじいちゃんの姿を想像すると、敬天愛人に生きた西郷隆盛と重なった。「天は人も我も同一に愛す、故に我を愛する心を以って人を愛すべし。」と言葉を残す西郷隆盛は時間があれば一人で山に登っていたという。西郷隆盛にとっての「天」が何を指すか本人にしか分からないことであるが、毎朝、東の空に向かって静かに手を合わせるような人間だったのではなかろうか。

 

早々に場を去り、一人下山しながら木々の隙間から差し込む黄金の光を改めて眺めていると、胸に熱いものがこみあげてきた。言葉になりきらない感動は恋である。恋は内に忍ばせておくこと。綺麗とか、美しいとか、言葉にしたくても、言葉にしてはならないものがある。大切に忍ばせておくことで恋と共に生は膨らんでいく。恋と欲望は違う。欲望は自分を大きくするが、恋は魂を大きくする。どんな言葉を発するかは言霊として人に影響を与えるが、あえて言葉を発しないことも大事にしたい。

 

お天道様もすっかり昇った。新しい一年が始まる。良い一年になるように。天はそうして等しく人に光を降り注ぐ。希望と、勇気と、困難に立ち向かう力強さと、すべてを包み込む温かな愛を受け取って、一年の幕を開けたい。

 

精神修養 #106 (2h/220h)

何をするにも行動の動機が自分の為になれば微妙だなと感じてしまうが、自分の為の行動は微妙だからといって誰かのための行動を起こすようであっても、結局はそれもまた自分の為の行動に過ぎない。

天は自分も他人も区別しない。敬天愛人の生き方に恋焦がれるなら、自分と他人を区別しないことなんじゃないかな。自分の為に生きることも、他人の為に生きることもなく、ただ人の為に生きる。自分も他人もなく、天からしてみれば、同じ人であるのだ。

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