ダメ人間として生きていく。[460/1000]

名声を勝ち取り、社会のために立派に働く人間をみると、ろくに働いていない自分をつまらない人間だと思う。これは自虐でも卑下でもなく、「道」と照らし合わせた際の客観的な事実を述べたまでのことである。

 

自虐や卑下は、主観から生まれるものである。主観は、人間礼賛によってその地位をあげたが、ほんとうに価値あるものなのか、正直、私は分からない。同じく主観から生まれるものに、幸福がある。幸せだったらいいじゃない、生きていればいいじゃないという考えは、100%主観に振り切った考え方である。他にも、がんばったのならいいじゃないと、主観的な努力に評価を置き換えるものや、犯罪を犯した子供の親が「家の子はほんとうはいい子なんです」と弁護するのも主観である。しかし、社会は法によって個人を裁き、情状酌量ということはあっても、それも初犯であるとか、客観的な事実に基づく場合である。

 

先日、幸福を受け入れることも試練であると書いたが、これは主観的な課題である。自分に厳しく、幸福すら受け入れることのできない人間に、不幸を受け入れることはできるはずもない。ならば、幸福を退けていないで受け入れてみろというのだ。しかし、これは客観的な感覚を失っていいこととは別の話である。森に家をつくる今の私はこの上なく幸せであるが、立派な社会人かと問われれば、働きもしないで好きなことをしているダメな人間なのだ。

 

では、客観的なものに価値はあるか。これは、個人が評価するには傲慢であろう。世間体を重んじた日本人は、人様に顔向けできないことがないように立派に働いてきたのだし、「道」と呼ばれるものはすべて自己の外側に基準を置き、そこに到達しようと身を修めることで人間を磨き上げた。こうした価値にこそ、日本人の伝統や、魂の問題が詰まっているのであり、個人の感情とは比べ物にならないほどの重みがある。私が何度も危惧している、幸福に染まれば魂を失うおそれがあるというのは、自分を「大切に」しすぎれば、道を蔑ろにしてしまうからである。私は天から切り離されることを何よりも怖れる。それは、生きることの大きな道標を完全に失うからである。

 

困ったことに、私は当分はダメ人間として生きていくことになりそうだ。ダメ人間のくせに、こうして人様のみえる場所で言葉を書いているのだから、自覚のあるときは、ほんとうは恥ずかしくてしかたがない。それでも、1000日まで書くと言ってしまった手前、恥を忍んで、ただ書きつづけているのである。幸いにも、これを読んでくれる人は、器が大きく、ダメ人間な私をダメ人間だと思わず、温かい目で見守ってくれる人ばかりであるが、どうか私の書くことなど真に受けず、ダメ人間がまた何か言っていると笑いながら、適当に読んでくれたら有難いかぎりである。

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