環境という大きな人格[595/1000]

私が都会に抱いた初めての印象は、人に対する関心のないことであった。おびただしい人の数が、街の通りを歩いている。中にはティッシュを配ったり、病気の我が子のために看板を自作して募金に励む人もいる。マイクを口に当てて政治活動をしているおじさんもいれば、選挙のために街頭演説をしている候補者もいる。

 

群集は、あたかも彼らが存在しないかのように、無関心に通りすぎていく。初めてこの光景を見たときの違和感を今でもおぼえている。そして、自分がその中に混じり入ったとき、彼らと同じように自分が無関心を振る舞っていることに対し、自分の意志が何か大きなものに吸収されていく冷ややかな感覚に戦慄した。

 

われわれは自分の意志で生きているようで、実は「環境」というもっと大きな人格に支配されている。何も不思議なことではない。それはちょうど、37兆個の細胞の集合体として「我」が頂点に君臨する人間と同じようなものだ。「我」は一人であるが、体内には大量の細菌を生かし生きており、彼らが不調をきたす度、頭痛を起こしたり腹痛を起こしたりする。

生活者も同じである。土地には、何千何万もの生活者を束ねる「環境」という大きな人格が存在する。この人格に個人で抗うことは、37兆個の細胞の一つが「我」に反抗し、頭痛やめまいを引き起こしたりするようなものだ。不可能ではないが、頭痛やめまい程度のものは、すぐに治っていく。

 

視野を大きくしていけば、こうも言うことができるだろう。何千何億という国民を束ねる「日本」という国にも一つの人格がある。これが国民性、民族性といえるものだ。羞恥心や真面目でよく働く気質は、日本という人格によって生み出されたものだと言える。さらに視野を大きくしていけば、「アジア」「ヨーロッパ」を束ねる人格があると言えるし、さらにさらに視野を大きくすれば、地球に存在する全人類を束ねる、大いなる人格があると言えるのである。

それを「神」と呼ぶこともできよう。例え異国の地に行こうと、言葉が通じなくとも旅ができてしまうのは、この大いなる人格を一つにしているからである。また、昨日も書いたが、この大いなる人格の歩みを「神の歩み」と呼ぶのなら、その軌跡が人類の歴史となっていく。

 

私が森のろうそく生活を終えて、文明の電気生活に戻って来たとき、光と音を一気に浴びすぎて、円形ハゲができたことは以前書いた。この時から、私は私が全身の細胞によって生かされている自覚が深まった。全細胞が新環境に適応する過程で、「我」の調子の良し悪しが定まるのである。

今度はそうした細胞のなかに視野を収斂させていくと、大量のミトコンドリアがいる。彼らはエネルギーを生み出し、筋肉や五臓六腑を動かすために、一つの意志に向かって動いているように思える。さらに、このミトコンドリアを分解していくとどうだろう。ここにも、大いなる宇宙の意志が宿っているように思われる。

 

知識不足のために、話しを雑に切り上げてしまったが、私の言いたかったことは、「我」に対する信頼などその程度のものであり「我」こそ中心であるという考えが、いかに馬鹿げているかということである。外を見ても内を見ても、果てにあるのは膨大な宇宙の未知である。その力の一部を担わせてもらっているにすぎないと思うなら、少しは我も宇宙の一構成要因として、健気な存在になるだろうか。

 

2024.2.5

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