魂は重たい。この重みだけが最後の希望なのだ。[272/1000]

不幸で乱暴で苦悩に満ちて、それでいて高潔な魂が、重い。魂の重みが全身をすっかり覆うとき、まるで世界に別の重力が生じたようで、心もろとも地に沈んでいく感覚が、人間として生々しく懊悩していることを実感させてくれる。幸せで軽薄な世界に何の喜びがあっただろう?悲痛な叫びに溢れた不幸な世界に高潔な魂が眠っているのか?だとしたら!ああなんて、魂は不幸で、苦しいのだ!

 

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読み終えた今、とてつもない魂の重みだけを感じている。色んな感情が消化されずとも、今すぐはっきり自覚できるのは、魂がとてつもなく重いものであるということだけだった。そして、この重みを背負えるのが人間であり、この重みを背負うことが人間の使命を全うすることに繋がっていく。そう信じる!

物質中心の軽薄な世界に惑わされて、宇宙に充満する魂の重みを失うほど、世界は軽くなる。我々人間は、人間としての存在を望むなら、魂の重みを背負わなければならない。その結果、不幸になるかもしれないが、それが人間の運命であり、永遠に抱き締められる誇りである。その勇気を、かつて魂に生きた偉大な人物が、何百年の時を経て、本を通して分け与えてくれる。

 

 

カラマーゾフの兄弟、苦悩と涙なしでは読めなかった。断片的に引用して、センチメンタルに書き綴っても、独りよがりに後から恥かしくなるばかりだろうから、特に心に刻まれている一つの場面だけに触れることにしたい。涙を流した箇所や、苦しんだ箇所は他にあるはずだけれど、読了後の今、もっとも心に刻まれているのは、長男のミーチャが父親殺しの罪を被って裁判にかけられたとき、冒頭で勇ましく宣誓する場面だった。

「被告は自己を有罪と認めますか?」

ミーチャはふいに席から立ち上がった。

「深酒と放蕩の罪は認めます」またしてもなにやらとっぴな、ほとんど気違いじみた声で彼は叫んだ。「怠惰と乱暴狼藉の罪も認めます。運命に足をすくわれた、まさにあの瞬間、わたしは永久に誠実な人間になろうと思っていました!しかし、わたしの敵であり、父親であるあの老人の死に関しては無実です!そして、父の金を強奪したという件に関しては、とんでもない、無実です、また罪のあるはずなどありません。ドミートリイ・カラマーゾフは卑劣漢ではあっても、泥棒ではありません!」

こう叫び終わると、彼は傍目にもわかるほど全身をふるわせながら、席に座った。裁判長がふたたび彼に向って、質問にだけ答えるようにし、関係のない気違いじみた絶叫は慎むよう、短いが噛んで含めるような注意を与えた。

ドストエフスキー, 「カラマーゾフの兄弟(下)」(新潮文庫)

 

自分でもどうしてこの場面が心に刻まれているのか分からない。しかし、この場面を境に、ミーチャを愛さずにはいられなくなってしまったことをはっきり自覚する。”パンとサーカス”ではなく”パンと見世物”のごとく、好奇心と嘲笑のためだけに埋め尽くされた卑しい聴衆の中で、ミーチャは永遠を直視する。運命のすべてが裁きによって決まろうとするこの厳粛の場で、気違いじみた絶叫をしながらも、馬鹿正直で、無邪気で、乱暴で、卑しさを認めながらも、最後の最後の、魂の高潔な一点だけは断固として譲らんとする、この純粋な勇ましさに、涙を流さずにはいられなかった。

 

狂うほど高潔な魂がここにある。この重みだけが、最後の希望なのだ。

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