自己犠牲の愛/「自分を大切に」の濫用[136/1000]

自己犠牲の愛について考えたい。本当の愛は、自己犠牲にあるのではないかと思うようになった。

今日では、自己犠牲という言葉そのものがマイナスの意味で使われることが多い。それを支持するのは「自分を大切にしなければ、他人も大切にできない」という考え方だろう。彼らはこう言う。「自分が飢えていたら、他人にパンを差し出すことはできない。」または、「コップの水が溢れなければ、他人に水を注ぐことはできない。」

理屈は分かる。しかし、これは真実だろうか?自分が満たされていないと、発動しない愛は、愛と呼べるのだろうか?

 

母という存在を考えたい。先の例えをそのまま用いれば、「自分が飢えていても、子にパンを差し出せる。」「コップに僅かな水しかなくとも、子に注いでやれる。」というのが、母という存在ではないだろうか?

かつて武士が、主や家系の名誉のために死んでいったことや、天皇のために身を挺して死んでいった軍人は、愛そのものだったのではないだろうか。愛は死を厭わないほどの厳しさの中にあるものではないのか。

 

「肉体の生存」が前提になれば、自己犠牲は敵となる。自分の命を何かに奉げる生き方は、肉体を拒絶する魂の生き方だ。自己犠牲は、肉体への執着を離れ、魂に価値を見出さなければ成し遂げることができない。

物質主義が行き過ぎ、この崇高さが失われている今は、誰かを命を奪ってでも自分を生かそうとする方向に世界が動いている気がする。「自分だけ良ければいい」という考え方はここから派生しているのではないか。

 

「自分を大切に」という言葉の定義はあいまいで、「肉体の自分」を大切にするのか「魂の自分」を大切にするのかで、言葉の意味は180度変わってしまう。当然前者を選べば楽で、後者を選べば厳しい。

なぜ愛がこれほどまでに難しい問題なのか。それは、愛が死も厭わないくらいの厳しい生き方の中にあるものだからではないだろうか。肉体に縛られているかぎりは、その崇高さと出会えないからではないだろうか。

 

引きつづき、愛することの問いは続く。

 

精神修養 #46 (2h/100h)

なぜ心は過去を回想するのだろう。なぜ心は未来に憧れ、憂うのだろう。なぜ心は今を拒絶するのだろう。魂が肉体に宿り、肉体は魂を拒絶する。だが、魂を退け肉体がすべてとなった人間からは、魂の崇高さは失われる。

魂と肉体との間には、常に衝突が起き、この狭間に日々葛藤が生じてる。未来を憧れる心とは何だ?過去を回想する心はどこにある?

それは仮に頭で理解できても、自己の内に体感として見つけようとするには、まだ静観が足りない。私は妄信より、自己の経験から生まれる智慧を欲している。

 

[夕の瞑想]

心が過去を回想するのは、なぜ人間は息を吐くのかの問いと同じ答えだと、ひとまず考えよう。取り入れたものは、出さねばならぬ。ただ、もしこれが本当なら「心は限られた容量がある」ということになる。

心が思考に執着するのは、楽をしたいからではないだろうか。それは、肉体が欲することとちょうど同じものだと感じる。ここで1つの問いが生じる。「心は肉体のものか?魂のものか?それともどちらのものでもないか?」

今ここの現実が苦しいから、過去や未来に入り浸り、苦を忘れ、楽を得ようとする。気を抜けば、すべてが楽に流れようとするのは瞑想中も同じだ。

 

人間として生きることの厳しさを肌で感じている。

しかし一方で、人間として生まれたことの崇高さに震えている。とてつもなく。

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