神は死んだ[491/1000]

ニーチェは「神は死んだ」といった。天国は消滅し、人間は生きる指針を失った。

われわれに必要なのは、神の啓示した律法や、古い道徳的慣習などではなく、この新しい大地に新たな意味をする超人だと、ニーチェは言う。

 

なるほど、ここに人類の次なる道が示された。ニーチェは現実的な思考をする人間であったようだ。思えば、哲学者ほど、「現実」に忠実な人間はいないのかもしれない。そして、神を信じる人間もあるなか、神の死を断言することは、どれほど勇敢であるといえるだろう。

ニーチェが神の死を宣言してから130年近く経とうとしているのに、私はいまだ神が死んだことを信じたくない人間である。そのために、武士道や騎士道に毎日のように触れ、精神のうちに神の復活を夢見ている。しかし、現実的な感性を働かせれば、人類の必然として、精神の消滅は避けられないものだとうすうす分かってはいる。

ただ、人間として生まれた自覚による、せめての悪あがきだ。時代の淘汰を受けながらも、大いなる海の一部となって沈んでいくことに誇りを見出したいのだ。

 

ニーチェは、人類の宿命に立ち向かうべく、新たな道を打ち立てた。それが「ツァラトゥストラはこう言った」である。そういう意味で、本著は人類の希望であり、騎士道精神に満ち満ちたものである。それから半世紀近く経って誕生したのが、三島由紀夫のような人間なんだろう。三島由紀夫の死は、時代の人間と後世の人間に対して、新たな「大地の意義」を示さんとしたものであるように思う。今の時点で、それを言葉にすることは力及ばずであるが、ニーチェが本著で比喩している、ラクダのように重たい伝統を背負う精神、獅子のように偶像を破壊する勇猛さ、幼き子のように無垢な存在として、時代を切り開こうとした人物といえば、三島由紀夫を第一に思い浮かべたということである。

 

ずっと以前、break the moral、略してBTM作戦と題して、教条的な道徳を打ち破ることを試みたことがあった。試みはおもしろかった。しかし、ニーチェを読んだあとでは、「自我の憂さ晴らし」としての色合いが強かったと反省している。超人への道となる、先に書いたラクダの伝統精神、獅子の偶像を破壊する勇猛な精神、幼き子の無垢な精神の三段階は、それぞれが「守」「破」「離」と対応しているように思われる。まずは、「守」である伝統精神を重んずるところからはじめなければ、大義はなく、ヒューマニズムに呑まれてしまう。もっとも、いまは、この「守」のラクダ精神すら、危機に瀕しているのだから、めざすところは遠い。

 

【書物の海 #21】ツァラトゥストラはこう言った, ニーチェ

ああ、わが兄弟たちよ、わたしがつくったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。しかもたんなる人間と自我の貧弱なひとかけらであった。わたし自身の灰と火影から、それは出てきたのだ。この幽霊は。まことに!それは彼岸からやってきたのではなかった!

 

敗戦を信じられない兵隊のように、わが息子の死を信じられない母のように、わたしもまた神が死んだことを認めることができず、ニーチェの「神が死んだ」の言葉には、衝撃の宣告を与えられたようだった。つまり、動揺をごまかしきれない。しかし、国が敗北したことも、息子が死んだことも、彼らはほんとうは分かっているように、わたしもまた、神が死んだことをほんとうは分かっていた。

その上で、何に人間存在をみつけるかという問いが、ニーチェの発するところならば、宣告を受け入れて「超人」について思慮を巡らすことのほうがずっと建設的だ。道が示されたことは、どれだけ有難いことだろう。

本著の冒頭では、森の聖者が神を信じている場面がある。もしかしたら、個人レベルの信仰についていえば、神を持つことは可能かもしれない。いずれにせよ、道はある。人間としての道を歩めばいいのだ。

 

2023.10.24

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