虚無を焼き尽くす百姓の哲学[348/1000]

現代人の宿命は、物質主義に隠れた虚無の克服だと思っている。我々は素っ裸の状態で、宇宙の冷気に晒されている。事物の中に隠れてごまかすことはできても、解決にはならない。

私自身、これまでに何度も、この底なしの虚無にやられてきた。オーストラリアをヒッチハイクで横断したのは、あの大きな大地を駆け抜ければ、きっと何かが見えると信じていたからだ。しかし、ゴールドコーストの大海原から昇る朝日を見た後も、虚無は依然と静かに横たわったままだった。それから私は、生きること”自体”に絶望し、娯楽の中に逃避するように計2年くらい慢性的な引きこもりとなる。

 

虚無をごまかすために1000日投稿を始め、色んな本を読んでいくうちに、虚無を焼き尽くすのは信仰だと知った。肉体以上のものの価値を信じ、自己を超越して生きることが、動物としてではなく、人間として生まれ死んでいく意味を与えてくれるのだった。それは神であり、魂であった。武士道の切腹や、原始キリスト教徒が迫害されてもなお神を信じ殉教していったように、物騒ではあるが、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の言葉のとおりである。

 

私は7月から、森に拠点をつくる。テーマは生命と魂の救済である。宿命たる虚無を焼き尽くすための拠点だ。森に家を建てるだけじゃなく、花や野菜やハーブなんかも植えたいと思って、本を読み漁っていると、福岡正信さんという方を知った。

福岡正信さんは、自然農法の大家として知られる、この道では有名な方だった。福岡さんは、自然に神を見ていた。宇宙神秘を地上におろす手段として、農業を考えていた。土は耕さない。肥料は使わない。農薬も使わない。草も刈らない。この原則にしたがって、自然に作物を育て、神秘的な営みのなかに実りを得られると信じて実践してきたのが福岡さんだった。そして、福岡さんの田んぼは、雑草が生えているのに豊作で、農薬も使わないのに、虫食いがないといった神秘を実現した。

 

自然農法というのは、太古の時代からあって、キリストの言葉の中にもすでにあらわれておるし、ガンジーなどがやっていた農法がそれではないか、あるいはトルストイの『イワンの馬鹿』の中に出てくる農法もそれだ、と私は思っているんです。これは、時代によって、場所によって、変動したり、流されたりするものではない。いつも農業の源流として、原点として存在している不動なものです。

福岡正信, 「自然農法 わら一本の革命」

 

人間は、神さまの愛っていうか、自然の偉大さを知るがために苦闘しているにすぎないんだと思います。ですから、百姓が仕事をするという場合、 自然に仕えてさえおればいいんです。「農業」っていうのは、「聖業」だと言っていた。というのは、農業は神のそば仕えであって、神に奉仕する役だから、聖業だという意味だと言うんですよね。それをはなれて人間が、近代農業とか、企業農業とかいって、神の側近であることを忘れてですね、儲けるようになったときには、これはもう、いわゆる農業の原理を忘れて、商人に成り下がったということなんです。

福岡正信, 「自然農法 わら一本の革命」

 

私はとても興奮した。自然のなかで野菜を育て、自然を食べることの営みが、神に通ずることを知ったからだ。百姓にとって自然に仕えるとは、武士が主に仕えるようなものだったであろう。百姓は、自然(神)の神秘ともっとも近いところに存在し聖業だと言われた。士農工商で、武士は支配階級として存在するが、農工商については特に序列はないと思っていた。しかし、ここに神を見ようとするなら、士農工商という序列にも新しい意味が浮かび上がってくる。

自然に仕え、自然の神秘の循環に自己を還していく。いかにも自然を愛する日本人らしい信仰だと思うのだ。

福岡さんは、「自然とは何か」という問いに農業と向き合いつづけた。これ即ち、神を問うことであった。自然とは何か、とは神とは何かということである。私もこの問いをもって森づくりに励むことになる。直感であるが、森や土や植物と真剣に向き合うことで、この虚無を克服できると信じている。

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