虚無を焼き尽くす百姓の哲学②[349/1000]

自然農業という、宇宙神秘を地上におろす農法を探求した福岡正信さんのお弟子さんたちは、山で原始生活をしていたそうな。生きることを問う青年が集い、そこで神に通ずる自然農を探求しながら、精神的な時間を過ごした。こういうことを聞くと、宗教っぽいイメージがつきまとうし、現にそう思われていたらしい。

 

私は原始生活に惹かれる。蛇口をひねれば水が出る。ボタンを押せば電球が光り、テレビがつく。積み上げられた科学の上で生活することは便利であるが、見えないところで行われる宇宙の営みに盲目になることで、虚無がはじまると思うのだ。

もともと科学は、神の御業を知るために発展してきた。アインシュタインも、本棚の半分はキリスト教関係の本だったと言われており、研究のかたわら教会で熱心にお祈りもしたという。神の御業を知ろうと努力した末に、今日の文明の礎があると思うと、今足を着けてる大地の奥下には人間の魂が眠っているのだと感動する。

 

今日は科学が無数に積み上げられ、神を探求する心も、埋もれてしまった。科学の動機は、水平的なものとなり、金の匂いがする。農薬なんかがそうだ。作物ではなく、画一した商品として品質を安定させるために、毒物を盛り、土を汚すことも厭わない。神ではなく、金を探求した。お金の信仰である。

盲目的に積み重なりすぎた科学の土台を一度すべて取っ払って、自分の素足で大地を踏んでみようと試みるのが原始生活だ。これは、虚無からの脱却である。あえて不便に突入するが、そこでは感情に出会うだろう。この宇宙と、科学と、人間の生活について、根源的なところから、科学的かつ信仰的に考えたいという動機を抱える人間は少なくないはずだ。

 

東南アジアを旅したことを思い出していた。発展途上国に感じた心地よさは、何だったのだろう。いつも思い返すのは、カンボジアの赤土の道だった。日本では決して見ることのできない真赤な道に、カンボジアの地質(というよりも素肌)を感じていた。むき出しになった自然が、その大地の神に通じているように感じた。

ここで問いになるのは、どこまでが自然で、どこまでが自然ではないか、ということである。人間も自然の一部として誕生した。人間に与えられた叡智も自然の産物だとしたら、人間の手が加わった「不自然」なものも、自然といえるのではないか。

 

この問いに対し、福岡正信さんはこう答えている。

早い話、人間が火と塩を使って料理して食べるのは自然食か不自然食かというと、どちらにもなる。古代人のように、自然そのままの動植物を生のままで食べるのが自然とすると、火と塩を使った食は自然食とはいえないが、その人間の智恵、つまり人智が、人間がもって生まれた自然の宿命だったとすると、自然食となる。

福岡正信, 「自然農法 わら一本の革命」

 

この人間の分別智は、自然から離反した人間独自のもので、智は智をよんで発達はするが、独り歩きの人智は、孤独な不可知の認識という無限の道にさまよい出ることになる。人間の智恵は、真の絶対的認識にならず、自然の実相も把握できないで、虚相の自然をつかまえて自然と錯覚してしまう智恵であるから、その智恵は、永遠に不完全な不自然な智恵という運命を免れることができない。ただ人間を昏迷の無間地獄に陥れるだけである。私が無分別の智を愛し、分別の智恵を憎むのはそのためである。私は無分別の叡智で認識された自然を真の自然とし、人間の創造した分別智による自然を虚像の自然として明確に区別し否定する。

福岡正信, 「自然農法 わら一本の革命」

 

分別の智恵とは何だ。無分別の叡智とは何だ。自然への畏敬の念か?神への信仰か?

私はまだ分からない。たぶん、この感覚が分からなくなってしまっているのが、現代人なんだろう。

問いはつづく。

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