不幸を恥だと思わない/命の突進が「生」となる[134/1000]

幸せな人生のほうが不幸な人生よりいいに決まってると、100人いたら99.9人答える社会だと思う。成功を追求する生き方に疑問を抱く人たちは沢山いても、「成幸」を叫ぶようになると、ここに疑問を持つ人はあまりいない。

 

「成功できない奴は負け犬だ」という考え方が薄れた代わりに、「不幸な人間は負け犬だ」という別の観念も生じた。物質的に恵まれない人間にとって、「幸せになれたらお金がなくてもいい」という考え方が救いであったことは間違いないが、幸せの物差しが曖昧であるゆえ、今日も幸せが分からず路頭に迷う人も少なくないように思う。

 

幸せな人間だと思われることは立派なことで、不幸な人間だと思われることは恥ずかしいこととなった。今日もSNSは幸せ祭りが開催されている。私はこの世界にいると、幸せじゃない自分がおかしいように思えて息が詰まりそうになる。ただ最近は、息苦しいと感じながら、幸せを披露する姿に、見苦しさも感じるようになった。

 

私は今、幸せを人生のゴールに生きるという大前提が崩れ、命の燃焼に向かって生きることだけに価値を見出すようになった。命を燃焼できているかどうかだけが重要なのであって、幸せであるか否かは、命の燃焼に付随する1つの状態にすぎない。物質的な成功も同じように、単なる副産物に過ぎない。

 

幸せにならなければいけない圧力から解放されたことで、気づいたこともある。幸せじゃないときに、幸せにならなければいけないとかえって自分の首を締めてしまっていたということだった。幸せになることへの執着が薄れると、不幸をそのまま観ることができる。すると、不幸のさらに奥で、苦しみとともに命が燃焼しているのを感じる。これに気づいてからは、苦しんでいるときのほうが、命を燃やせるんじゃないかと思うようになった。

誰かと一緒に過ごす時間はかけがえのないものであるが、孤独に潰されそうになる瞬間も、人生を彩ってくれると信じることができれば、苦しみのど真ん中に突っ込んでやろうと思える。

 

 

これは、「なぜ生きているのか」という長年の問いに対する1つの答えでもあった。

生きることを問うなら、死ぬことを問わなければ本質は見えてこないと、山本常朝の「葉隠」が教えてくれた。幸せになることは、生きるゴールではない。この地球で、親から命を授かり、人間として生まれた私は、ただ死に向かって命を使い果たすことに価値を感じている。

物質的に豊かかどうかとか、幸せとか不幸とかは結果論に過ぎない。本質を見れば、命がひたすら死に向かっていくような突進だけがある。「突進」という言葉が適当かどうか、まだ分からない。

でも、とりあえずこれを「命の突進」と呼びたい。ひたすら死に向かおうとする命の突進だけが、そのまま「生」を彩っていく。

 

精神修養 #44 (2h/96h)

瞑想は心の呼吸である。心が日中吸収した雑音は、瞑想中にすべて吐き出される。

ゆえに、世俗においての瞑想のほうが、静かな山奥で行う瞑想よりもずっと大変である。10日間の瞑想合宿は、運動も、スマホも、本も、他人と話すことも禁止されていた。これは雑音を心が吸収して、修行にならないからだろう。

瞑想100時間を目前としても、私の心は落ち着きがなく、日々吸収した雑音を吐き出し続ける。集中できないことに嫌気がさすが、これは生理反応のようなものだから、どうしようもないことだと割り切ろう。

起こることは仕方がないので、その中でも座り続ける弛まぬ努力をする。私にできることはこれしかない。肝心なのは自分の姿勢。

 

[夕の瞑想にて]

終盤は痛みを耐え忍ぶことで必死だった。呼吸が痛みに呼応する形で、浅くなる中、何度も目を開けてしまえと肉体が叫ぶ。しかしその度に、葉隠の一句「二つ一つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり。」と「毎朝毎晩、改めては死に、改めては死に、常住死身となる。」を思い出す。

もう瞑想などどうでもよく、自分との意地の戦いだった。目を開ければ負けで、時間まで耐え抜けば勝ち。呼吸に集中することは、自分に勝つために、痛みを俯瞰する手段にすぎなくなった。

しかし、私が修行に求めるのは、瞑想そのものの技術ではなく、まさにこういった魂の鍛錬だった。「魂とは肉体を拒絶するなにかである。」というアランの言葉は有名だ。肉体と魂がぶつかり合う時、必ず今日みたいな自分との勝負が生まれる。肝心な場で、常に肉体に勝てるように、絶えず毎日、魂を鍛えるのだ。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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