「生」と「死」が生む中庸②[532/1000]

生の中にいては死を見つめ、死の中にいては生を見つめる。幸福で聡明で敬虔な世界を前にしながら、背後にそびえ立つ女神像の存在と、地獄を思わせる凄惨な畏怖を忘れないこと。

これが、生を自己目的とせず、死の悪意にも堕落しない世界像だろうか。

 

生死の中庸について、昨日書きはしたものの、生死の中間に立つとは一体どういうことか。私が第一に思い浮かべたのが、「ショーシャンクの空に」という映画の一場面だった。

主人公アンディが労役中に死ぬ可能性をかえりみず、看守たちの立ち話に私言をはさみ、前職の知識をいかした金融関係の手続きを申し出る。これにより、看守の一人が益するわけだが、その見返りとして、労役中の囚人たちにビールをご馳走してくれないかとお願いするのだ。

この願いはかなえられ、広漠の空のした、囚人たちがビールをうまそうに飲むシーンがあるが、アンディは彼らから少し離れた場所で一人、微笑みながら満足そうにする。

私はこのアンディの振る舞いに、生死を束ねながら、善意に生きる人間の強さをみる。つまり、「幸福の傍観者」として幸福を味わうが、幸福が自己目的とはならず、常に超感覚的な敬虔な存在の僕となるのである。

 

 

私自身が、森の隠遁小屋で、悪意の底から善意を見つけた体験を思えば、生死を中間で束ねるというよりは、冒頭でも書いた、生の中の死を見つめ、死の中の生を見つめる、という表現の方がしっくりくる。

悪意が生み出す憎しみや軽蔑も、それらの根底には愛が潜んでいるし、牧歌的で生命力に満ち満ちた生活にも、祈りが根底にある。また、ベートーヴェンの「月光」第二楽章に幸福の本質を思うのだ。嵐のなかの静けさ、暗闇に灯された希望、決して永遠ではない通りすぎてしまう幸福こそ、永遠なのである。

 

物質文明の生活のなかにおいては、敬虔なものにふれる機会を芸術に託したいというのが、今の私の考えである。音楽も絵画も文学も、どれも生死を孕んでいる。もちろん、自然崇拝のなかで生きることのほうが日本的だけれど、畑も狩猟も、田舎の小さな集落で暮らす人以外は現実的ではないだろう。

 

そもそも、なぜ生にも死にも堕することのない道を模索しているかと言えば、ここに人間の高貴、真に人道的な生き方があると信じるからである。トーマスマン「魔の山」の主人公ハンスカストルプの言葉に、見事にそれを表現したものがあるから、最後にそれを記して、本日の手記を終わりたい。

 

「死よりも高貴なのだ、死の代償としては高貴すぎるのだ。これが人間の頭脳の自由である。生よりも高貴、生の付属物としては高貴すぎる、―これが人間の心の敬虔というものなのだ。」

 

2023.12.4

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