純粋な魂の厳しさを求めて。[236/1000]

美しき魂を知りたくも、知られないのは、物質主義の現代の感覚に侵されているからなんだろうか。生易しい世界に侵されているのだろうか。

肉体が水平化することは、垂直方向の感度を失うことを意味する。ドストエフスキーの罪と罰を読んでも、垂直方向の魂を感じることができなければ、水平化した平坦な物語としか映らない。一昔前は、ドストエフスキーを読んで、苦しくて自殺した人間もいるというのに。苦しみが分からないのは、それだけ魂が水平化しちまったってことなのかい。既に現代の肉体至上主義に侵されていて、魂を失っちまったってことなのかい。魂の分からない人間は、人間と言えるのかい。お願いだからすべての苦しみを、この身で感じさせてくれ。苦しめないことを苦しんでいる、この苦しみは何なのだろう。

 

本を読んでも、分からないことが多いとき、垂直方向の感度を失っている。乃木希典という人物の仁義に感服するも、妻の静子さんへの態度を見ると愛情というものが分からなくなる。分かるものと分からないものがある。水平化して魂の感度を失えば、ある色彩が失われたように、行為の垂直性を理解することができない。純粋な物が分かるには、純粋な魂をもっていなくちゃならない。

罪と罰の、ラスコーリニコフも、乃木希典も、恥辱に苦しんで死にたがっていた。この恥辱に死にたいと言う苦しみはどんなものなのだろう。死にたくなるほどの恥辱の苦しみと、神との孤独な対話の純粋に、かつての魂のある人間は、文学を読んで自殺したんだろうか。

この苦しみを望むことは怖いことであるが、苦しみが分からなければ、純粋な人間として生きられないじゃないか。見えていない世界がある。純粋で厳しいかもしれないけれど、美しく崇高な世界がある。それを知りたいのだ。

 

水平化した世界では、純粋なものの価値は蔑ろにされる。美しいものよりも、醜いものに人は集まる。美しいものは厳しく、醜いものは楽だからだ。古本屋で葉隠の原典が50円で売られていたときも、この不敬な現代に悲憤するくらいじゃないと駄目だった。ひたすら魂の美しさに憧れ続けなければ、魂の純粋はいつまでも分からない。何度も何度も、分かるまで読み込まなきゃならない。10回でも20回でも、苦しみが分かるまで。

 

精神修養 #146 (2h/300h)

霊性心に楔を打つことの意味が分かった。執行草舟先生は、楔を打てと言った。宇宙に蔓延する暗黒流体には楔を打たなきゃ、日々それに生きられないといった。これは、暗黒流体や霊性心や魂というものが掴みどころのないエネルギーだからだろう。だからこのエネルギーに呼応する言葉を自分で決めて、この大きな楔として打ち込む必要があるのだ。

葉隠十戒。草舟先生は、葉隠十戒の楔を打ったという。人によって打ち込む楔は何でもよい。私もまた、葉隠十戒を打ち込む。霊性心の中に、霊性心と質を同にする言葉を打ち込む。そうすると掴みどころのなかった宇宙エネルギーも具現化される。漠然としたエネルギーの中に、自分を留めておく手だてが見つかる。

つまり霊性心にいつでも生きられるように、霊性心の上に錨を下ろすということである。物質主義に生きる以上、肉体が日常を生きるのは仕方がないことであるが、流されてもこの錨を頼りに帰ってこいということである。日々、自己中心性に引き込まれそうになるのを、言葉を基準に置くことで抜け出してこいと言うことである。

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