自分を死なせるとか物騒なこと書いて申し訳ない[182/1000]

自分を死なせるとか、物騒なこと書いていることは自覚していて、それでも懲りずに読んでくれる人が一定数いると思うと申し訳なくなってくるなぁ。この3か月は、武士道の強面といわれる山本常朝の「葉隠」に感銘を受けて、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の言葉のように現代に似つかわしくない荒々しい言葉を多用してきた。

幸せだけに満ちた世界に感じていた息苦しさを着想にして、人間には死の衝動も必要だという考えに共感し、武士の世界が美しかったのは、生と死の2つの衝動のど真ん中を生きていたからだと知り、死の極性が排除され、生の極性に振り切れたのは、時代の影響もあり、魂が失われ肉体至上主義が蔓延したからだと腑に落とした。肉体は本能的に生きる方向へ向かうものだから、肉体がすべてになれば、幸せが正義で、不幸は悪となって、死に関するものはすべて蓋をされる。

そうして自分を大事にしようという風潮で溢れた。世界から垂直性は失われ、水平的なものだけが残った。

 

自分を大事にして何が悪い、自分が満たされるならいいじゃないか、と開き直って考えてみたこともあったが、私の場合、自分を満たすほど、自己が肥大化して、傲慢で醜い生き様になる一方だった。愛だの友情だの恋だの人の為だの世の為だの義理だの人情だの、聞こえのいい言葉を発していても、その根本には常に「自分」の生存を前提とする不純さがあった。

自分を大事にすると言えば、聞こえはよろしいが、その先に本物の愛や友情はあるのだろうかと疑問に思う。親のために死ねるか、先生のために死ねるか、恋人のために死ねるか、友のために死ねるかが問われている。自己を犠牲にしなければ、純粋な愛や友情、つまり自然の法を身とすることはできないと今は思っている。

 

だから「自分を死なせて、自分以上のもののために生きる」という葉隠の考え方は、革新的であった。自分のコップを水で満たし、溢れた分を人に注いでやるという、風潮そのものをひっくり返してしまった。そもそも自分のコップなど、はなから勘定に入れないのだ。宮沢賢治の「雨にも負けず」にも”自分を勘定に入れず”という一句がある。自分のコップがなくなれば、自分に水を注ぐ必要はなくなって、相手にすべてを注いでやれる。

身体が凍えていても、目の前の相手が寒そうにしていれば上着をかけてやれる。米がわずかしか残っていなくても、飢えている人間がいたら、これを食えと差し出してやれる。子供が道路に放り出されていれば、自分の命を顧みず飛び出して行ける。そんな自己犠牲的な愛に純粋さを感じるから、我々は感動するのではないのか。

 

その純粋な一点を極めた者が、切腹をして自ら死を選んだ武士だった。今日では斬り合うことはない。実際に肉体に刃が貫くことはないが、切腹のような究極の死を問われたときに、本当に死ねるのかと問われれば、私のは生きる方に転がると思う。私は物質主義の影響をもろに受けている不純な存在だと自覚する。だから日々、生きよう生きようとする心身を、毎朝毎夕、改めては死なせて、改めては死なせることを心掛けて、純粋な一点に近づくよう修養を行うことを選ぶ。

 

精神修養 #92 (2h/192h)

呼吸をする時間は、自分の時間でありながら、天の時間でもある。自分にはらたく求心力は、すべてのものを自分のものにしようとするが、それを天に還していくことが瞑想である。自分を死なせるとはそんな状態のことかもしれない。

 

[夕の瞑想]

「どうして分かってくれないんだ」と思うことがある。そんな時は「ああこんなに頑張ってるのに分かってもらえなくて悲しいんだね」と自分に寄り添うように…..と心理学は教えるが、今はそれを否定する。

「どうして分かってくれないんだ」などと思うことがあれば、それは自分が生きていることを意味する。だからそんな風に思う時は、自分をひたすら死なせる。同じように、瞑想中、遠くから人の声が聞こえて「うるせえな」と思う時も、自分が生きている証拠である。

今日の瞑想は「毎朝毎夕改めては死に改めては死に、常住死身となる」の言葉のままだなと思うほどに、改めては死んでいく感覚があった。静寂と呼吸だけがある。変な言い方だけれど、自分が死身となった状態は不思議と身体が軽くて安心している。

自分を死なせるというと、可哀想とか、残酷とか、厳しいとか、もっと自分を愛しなさいとか、声が聞こえてくるが、これもまた自分から発せられた言葉である。

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