天より雨が降ってきた。通りすがりの旅人は感謝する。[423/1000]

天よりパンが降ってきた。
ある者はなぜ肉でないかと大いに嘆いた。

天より肉が降ってきた。
ある者はパンが良かったと大いに嘆いた。

天より神様が降りてきた。
全員が喜ぶ物がわかるまで、当分は水を降らせます。

 

天より雨が降ってきた。
みんなは服が濡れると大いに嘆いた。

天より炎が降ってきた。
みんなは家が焼けると大いに嘆いた。

天より神様が降りてきた。
全員が喜ぶ物がわかるまで、何も降らせないことにします。

 

天より何も降ってこない。
ある者は神に見捨てられたと大いに嘆いた。

天より色々降ってきた。
ある者は降らせる物を選べと大いに嘆いた。

天より巨岩の雨が降ってきた。
これでようやく嘆きの声はなくなった。

 

天より雨が降ってきた。
通りすがりの旅人は感謝する。

神よ、予期せぬ天気に感謝します。
お陰で我が旅路は退屈せずに済むのです。

神は応えずに見送った。
それでいい。神とサイコロは無口でいい。

 

ベルンカステル

 

パンが降れば肉を欲し、肉が降ればパンがよかったという。ぎらついた太陽に焼かれれば雲を欲するが、湿った日がつづけば爽快な青空がみたくなる。客観的にみれば、あまりにも愚かで傲慢な振る舞いであると思う。しかし、現実に同じような振る舞いをしていないだろうか。なにをしても、なにが与えられても、なにが起こっても不満はつきまとい、いつも心を病んでいる。

必ずしも、盲目となって幸福に甘んじろというわけではない。隣国からミサイルが飛んできているのに、何の関心も払わなければ、かえって現実を歪め、平和ボケといわれても仕方がない。しかし、いつもヒステリックとなって、毎日のように世事のすべてに文句を言い、真に平和なひと時に目を向けようとさえしなければ、日常のすべてが怖れで覆いつくされてしまう。

 

何もかもおまじないのように、感謝、感謝といわれる空気には、宗教っぽさもある。それは苦手かもしれないが、一律に感謝の価値を否定することもないのである。なぜなら、世界から感謝を消し去れば、平和ボケの逆となり、今度は世界が不満と争いに満ちることになる。それは、同じように世界を歪めてしまうのだ。

どれだけ頑張っても、世界を歪めてしまうかもしれず、このバランス感覚をとることが可能なのかは分からないけれど、私は少し、感謝というものを毛嫌いしすぎていたように思うのである。毎日、不満と怖れに満ちて生きるよりかは、旅人のように雨を退屈しなくてすむと考えて生きたほうが、よっぽど運命に立ち向かえそうである。

今日も雨が降っている。気持ちよさそうなシャワーに、心安らぐ雨の音。神よ、予期せぬ天気に感謝します。お陰で我が旅路は退屈せずに済むのです。

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